完 〜Ⅲへ続く〜
近頃の気持ちの移り変わりにより、気分転換も兼ねてまたブログを新しく変えることにしました。
内容は大きく変わらないものの、
修行に頼み、修行に縋り、身を委ねることで今を生きている者の、ただの日記として書こうかなと思ってます。
〜真実の探求3に続く〜
一休
人の数だけ真実あり
このしばらく熱、風邪が続いたりして身体が深部から急激に弛み、それに伴って心の緊張もガクンと弛むことになり本音が出てきた。
さくらももこさんが亡くなってしまいなぜだか少し涙がでました。と同時に、この世にもうあまり未練は無いような気がしました。なんとなくです。
昔はちびまる子ちゃんも見ていたし、マンガやエッセイも読んだり、馴染みのある好きな方でした。
力みの無い感じとか、ちょっといい加減で軽い感じのところとかが好きですが、自分にはたぶん無いところです。
自分は真逆とも言える感じで昔からいつも、ムキになって、躍起になって、必死で、限界まで、しなければならない、という力みが常に自分にはあります。そういうものに支配されてるところが大きい。
〜しなければという堅い思い込みや、劣等感というあるがままに自分を肯定出来ない隠れている何かに動かされてます。
身体の深部に不随意緊張として凝り固まっているそれらに支配されてます。
今ではだいぶそういう力みも抜けてきて、いい意味でマイペースになれて来たと思うこともあったが、
やっぱり全然まだマシになったくらいで深部が弛むごとに本心が出てきます。
ガクンと弛んで、もう頑張る気にもなれない、生きていく気も起きない、という気持ちになって初めて、
ああ、無理をしてるんだな、無理矢理なことをやってんだなと確認できる。
苦しみから逃れるために何かを追いかけて、その追いかけるものに縋って生きている。
ゆとりがあるようで、実はゆとりなんか全くない。常にギリギリで綱渡りのようになんとか生きてる。
今生で何かを満たしたい。生きてるうちになんとかしたくて、
残念無念、未練を残して終わりたくはなくて必死になってやってるが、どこまでやっても辿り着かずに諦めの境地さえ見えてくる。
苦しみ抜くことが自分のさだめならそれでもいいかと、来世に期待でもすりゃいいかと、
そんなことも思うようになる。
やるだけやって結果がそれなら仕方ねえと。
そんなことを思う中で、真実は一つじゃないということも実感しつつある。
自分の心と身体で感じ、掴み取ったものだけが結局は真実なのかもしれないと思っている。
自分の真実は他人には通用しない。他人の真実もまた自分には通用しない。
人の数だけ真実があり、人の数だけ真実が産まれる。
そういうものかもしれない。
どんな高等な教えも、霊格の高い者の言うことも、自分の中を通してみなければわからない。
自分の中を通して、自分の血肉になったものだけが真実、
自分で生きて出した答えが、何よりの真実かもしれない。
一休
今日の日記
いろいろとあり、ブログを書くような気持ちには無いのだが、自分の心境にはあまり触れずに日記として少し書こうかと思います。
また日々の生活や修行に対することなど、一度見直さなければならないところに来ており、瞑想修行も先へ進めるのはストップしています。
一旦リセットするために、できるだけ余計なことは考えないで修行からも意識を離そうとしているところで、
しなければ、という思いではやらないことにしています。
この前受け取って自分の物となった法具はある金剛杵だが、密教の奥義が入ったものである。
密教では最重要となる物品を用いて作られた、到底お金には変えられない特殊な法具となっている。仏陀と空海お大師様に縁深きものと教えられています。
修行が進むにつれて、教えられる内容にも秘密事項が増えてきたのでうかつなことは書けなくなってきました。ので書ける範囲で書いてます。
なぜ自分にそのような法具や法が与えられるのか?
考えてみてもわかりません。
霊性修行においては、過去世を含めた修行経験がものを言うので、今生の修行経験だけを見たのではわからないと言います。
過去に積み上げてきている法縁や徳、霊力といったものが今生で花開く、そういうことがあるのだということです。
ただ、仏陀にしてもお大師様にしても、その意思の最も大きなところは衆生済度ということにあるだろうと思うのです。
そう考えると、こうしてそれらの縁を与えられている自分にはそのお役目があるはず、と思うのだが、
そうしたことも今はよくわからなくなっているのです。
自分がすべき衆生済度とは?
自分がしたい衆生済度とは?
自利即利他、利他即自利、は重要であり、
己がためが他人のため、他人のためが己がためであるのが本当である。
答えは縁が導いてくれるのだろうか。
一休
修行記録
日付け変わったが今日また指導者のもとへ行ってきました。
伝法を受ける予定だったがそれは次回に延期で、新しい法具その他を受け取りました。
ここしばらくずっと心身共に苦しい状態にあったのだが、やっと少し好転してきたようです。
人によって霊的な進歩の仕方、その速度も、変化の流れも、伸びしろも皆違いますが、
自分はいつもだいたい、
苦しくなって波動も落ちて、底まで行って光も届かないところに行ってから、今度はバネの反動のように前より高く上がる、というような流れが多い。
陰極まって陽に転じるという流れを繰り返して、だんだん上がっているようです。
最近YouTubeで、NHKスペシャル神の数式というのを見ていました。
物理学者が追い求める神の数式、この宇宙の設計図を思考で計算で導き出して行くその様がすごく面白かった。
宇宙の成り立ち、法則性を知るにも、カルマについて考えるのにも、人間の感覚を知るにも、自分としては思わぬヒントが沢山得られた。
真理を知ろうとするその想いや歩みは、仏教者も物理学者も同じだなとこの番組を見て思いました。
真実を知りたいという純粋な探求心で生きている人を見るのはおもしろいです。
一休
因果因縁
昨日の記事に書いたことでもう一つ思ったことがあります。
災害や災難といったことがあると、「神様はいない、神様がいたらこんなことにはならない」と考える人がいますが、
他にも、神や信仰をアレルギーの如く嫌う人もいますが、
そうした人には、実は神というものに理想を押しつけている人も多いのかもしれないという気がしました。
自分の望む、自分の思う理想が、
神によってもたらされるべきだ、神は人を満たすべきなんだ、
とでもいうような、そういう想いが心の底にあるのかなという気がしました。
それはまるで、親に理想を求める子供の姿、
何かあったら親に満たしてもらいたい、親に助けてもらいたいと求める未熟な子供の姿にも似ていると思いました。
親に甘えたのに、思ったように応えてもらえなくてスネている子供の心境にも似ているかなと。
人の身に起こっていることが、まずどこまでも因果因縁によるものであるという、
そのことをよく理解しない限り、身に起こること、そしてすでに起こったこと(人の宿命とか)を受け入れてゆくのは難しいのかもしれない。
もちろん頭で理解しただけで本当に芯から受け入れられるようになるわけじゃないが、
受け入れてゆくための姿勢がそこに出来て行くんじゃないかなあという風に思います。
身に起こることすべて、それは自分、及び自分たちの責任であるという、そこを理解しないと、
では改善のために何をどう変えればいいのかということも、その方向が誤った方向に進みかねないと思う。
因果因縁ということでは柿の木の話がよく出てくる。
種(=因)を蒔いた。
時間をかけて育って実(=果)が成った。
実が成るまでの過程には様々な縁がある。
蒔かれた種が自分だとすると、
生まれた時代、環境、親兄弟など後天的には選べなかったものがある。(宿因、宿縁)
これが蒔かれた場所であり、種の質です。
いい土か悪い土か、日が良くあたるか当たらないか、種そのものが元気だったか、大きかったか小さかったかというところ。
その後は如何に世話をするか、手間をかけ手入れされるかで実りが変わる。
環境が悪くても人が一生懸命世話をしてくれれば良い実りをもたらすこともできる。
ただほっぽっといただけではどうかわからない。枯れてしまうかもしれないし途中で虫に食われてしまうかもしれない。
ここで世話をしてくれる人達や害を為す虫などが生きて出会う縁です。
原因からくる結果を、間接的に複雑に変化させるものです。
因、縁、果は常に複雑に絡み合い成り立ってます。
目に見える縁も、見えない縁も様々なものがあり、どれを選び大切にするか、深めてゆくかなどは自由意思に任されてます。
人の想いや行い、生き方で、出会う縁は変えることのできるもの、ということです。
育て方をよく知っていて上手に育てられる人=良い師に巡り合うことが大事であると、私の修行の世界では言われます。
一休
死に対するカルマ
「神様もなにもあったもんじゃない。こういうのを見ると神様はやっぱりいないんだなと思う。」
西日本の災害の報道を仕事仲間と見ていて、仲間がそう言っているのを聞いて思いました。
多くの人は、人が死ぬことを良くないことと捉えている。
死は怖いことであり、悲しいことであり、忌むべきものであるという、そういうことが我々の心の奥底には刻まれている。
これ自体も我々人類が時間をかけて作り上げてきたカルマ、恐れという名の負の遺産である。
この恐れというネガティブなエネルギーを自ら膨らましてそれに取り込まれていく以前の、それ以前の古代人種は死は怖いとか悲しいとかいうものではなかったといいます。
ある段階まで霊性の上がっている人はこのカルマ(ネガティブな重い想念領域)から抜け出ているから人の死そのものに特段恐れも悲しみもない。野口先生もそういう方だったと思います。
そういう人は当然この世への意識の束縛も薄く、この世だけがすべて、という感覚もないであろう。
普通の人にはこの世が現実で、死んだ後のあの世は未知の夢の世界であるが、
ある段階まで行けばそれは逆で、あの世の方がむしろ現実でこの世の方が夢の世界、一本の映画のようなものであることを実感できるのかもしれない。
ブッダも行ったと伝えられるマハーサマーディという高度な修行法があるが、
この世、自分の肉体に留まり束縛されている通常の意識をその束縛から解き放ち、あの世の領域を旅して来るというものである。要するに高度な幽体離脱である。
自我という意識をまとってこの世に私として存在しているのが通常であるが、自我の意識を1%肉体に残して深い領域へ潜る。ダイバーが海の中へ潜って海中を旅するようなものであるという。
海上(この世)から海中(あの世)は普通は見ることが出来ないが、ダイビングをしてあの世の実相を見てくる。
そうして見てきたあの世の実相、あの世からみたこの世の実相、それをブッダは伝えているのであろう。
仏教は思想でも哲学でもない、と言われる所以がこのことに一つあると思う。
私も一応このマハーサマーディを目指して行を進めている形になっている。
自分では目指しているつもりはないけれど、順当に進めばいずれ目標にもなってくるかもしれない。
マハーサマーディは死の一歩手前の体験であるというから、もしこれを行い死後の世界を知れば、自分や身近な人の死にも恐れも悲しみも、マイナスな想いはなにも無くなるのかもしれない。
(マハーサマーディには段階があり、ブッダが行ったのは最も高度なもので深層部まで潜っているようです。)
一休
災害に対して
豪雨災害の被災地のことを気にしつつ日々を過ごしています。
ほんの僅かばかりですが大変さを分かち合うつもりで、少し自重して節制、節約を意識しながら過ごしています。
雨だけでこれだけの被害になってしまったことが意外というか、思いもよらないという感じです。
大いなる意思の働きというか、なにか霊的な意味や意図があることは間違いないと思います。
具体的なことまでは私には分かりませんが、浄化作用であることは確かと思います。
仏教では「共業(ぐうごう)」といいますが、集団や民族全体に共有された責任として働くカルマがあります。
このような自然災害も、より本質を辿れば人災であるとします。
今の人間、及び過去の人間が作ってきたマイナス作用、生み出したネガティブなエネルギーの一つの現れ方です。
個人的に負っているカルマとは少し別物と言えますが、
今の人達も、ご先祖たちも、その歴史の中で作り生んできたエネルギーには良いも悪いも沢山のものがあり、悪いの(バッドカルマ)に対しては日本民族としていわば連帯責任をとらなければならないものも出てくるわけです。
これからもこうした災害のような形での業出しは続くだろうなと思っています。
過去神仏を尊び敬うことでグッドカルマも沢山作ってきているのが日本人です。
が、反面ないがしろにして(廃仏運動などで沢山の寺や仏像も破壊し燃やしているなどがある)神仏の怒りを買っているなど多くのバッドカルマも作っています。
尊ぶべき加護や庇護を受けている存在を自ら潰して、そのせいで苦労をするハメになっているという側面も持ち合わせているのです。
これら尊ぶべき存在の加護が弱まれば災害の被害もますますひどいものとなってしまいます。
私利私欲のために神仏に媚を売ってもなんにもなりません。日本人としてまず神仏へ感謝の想いを持つ人が増えないといけないと思います。
できることなら感謝と、さらに懺悔心も持てたらいいのかなと思います。過去の歴史の過ちをも懺悔できればより良いだろうと思います。
「懺悔滅罪」といって、罪に対して悔いて詫びる気持ち、ゴメンなさい申し訳無いという気持ちを持てればバッドカルマは軽減できる、とはお釈迦様の教えです。
一休