一休 真実の探求Ⅱ ~引導の神々~

霊性修行、活元修行の日記、気エネルギー、神仏や霊的な事など             

神々の世界、人々の世界

優れた僧や、聖者、賢者と言われるような人の中に、即身成仏される人がいます。
即身成仏と言わずとも中身としては同じ、あるいは似たようなものと言える亡くなり方をしている方がいるものです。

だいたいそういう方というのは自分の死期を覚っていて、
周囲の近い人にはそれを漏らしたり伝えたりしていた、という話がよくあります。




f:id:ikkyuw:20170210013901j:plain



宗教や地域によっては、このような方の死を祝うところもあると言います。

肉体という重い殻を脱ぎ捨てて、時空間の制約のない形へと存在の在り方が変わるので、
その方がより活躍できるという面があるわけです。


非物質界に住まう神仏や様々な高次元の存在というのは、
重い肉体を持った我々には及ばないような力や働きを持てるものであり、

だからこそできる人々の救済、幸福の手伝いというのがあるものです。



しかし、我々が主体的に捉えてるこの物質界においては重い肉体を持った我々人間の方が力を持っているという一面もあり、

肉体があるからこそできる人の幸福の手伝い、そして神仏や高次元存在への手伝いというものもあり、
そちらの面も一方で大事になるのであります。




f:id:ikkyuw:20170210013927j:plain




神は人の敬いによりて威を増し、人は神の徳によりて運を添う


これは神道に伝わる教えの言葉です。


私は神は敬うべきと思っておりますが、
神と人とは共存、共生しており、

ある意味、持ちつ持たれつの関係と言える面もある、とも今は思っております。



なんにしても、

神々や精霊を、そしてその宿る大自然を大切にし敬うことでこそ、
人はそれらに護られて、本当の心の豊かさ、幸福を享受することが可能になってゆくというものなのであろう。




f:id:ikkyuw:20170210013952j:plain



最近、神道から学ぶものが多いです。

この狭い国でセカセカと時間に追われ働いてばかりの今の日本人は、スケールが小さくて本当につまらなくなってますが、

昔の日本にはもっと雄大なものがあったんだなあと思うこの頃であります。



一休

霊的地固め

先日鑑定結果のでた両親の産土神社及び鎮守神社を両親に伝えるために実家へ帰りました。

なぜ今回両親のを鑑定してもらうようにとのメッセージが降りてきたのか、実家に帰ってみてわかった気がしているところです。



f:id:ikkyuw:20170208205318j:plain




一年ぶりくらいに帰ったのですが、いつの間にか、
かつて自分が住んでいた頃残した神棚をとても大事に管理していて、毎日神様に挨拶しているんだと言っておりました。


おそらく両親の産土様が、両親に存在を知らせるべく計らったようです。

余り期待はしてなかったのだが、両親に鑑定結果を伝えると思いの外信じてくれたようで、挨拶に行って御札ももらってくるつもりの様子でした。

父親は古い人なので古い観念に縛られている人であり、とりわけ霊的なことには疑り深く、
本人の考える神、信仰に対する頑なな思想にはまらないものを頑として受け入れないという面が強くあるのですが、伝えてみてよかった。
言ってみるもんだなあと思っているところです。




f:id:ikkyuw:20170208205415j:plain





これで一つ安心して先へ進んで行けるというものです。

自分を担当している、自分の親的存在である産土神鎮守神という存在をまず大事にすること。
そしてその上で他の神仏を大事にして行くのだという、

そういう順序がスジの通った、神仏界では大切な原則なのだそうです。

人間社会もそれは同じと思うので、よくわかります。



f:id:ikkyuw:20170208205633j:plain




そして、近しい親、家族、ご先祖をまず大事にすること。
それが神仏界で重んじられることであり、霊的にもカルマという面でも大切な順序なようです。

隣人を愛すということはもちろん大切と思うが、
自分のようにこればかり大事にして、家族、親族一族という繋りをなおざりにしていると、運命の拓かれ方にも効率が悪いようです。

まず近しいところを大事にし、そこから放射線状に拡げてゆくという形が望ましい。




f:id:ikkyuw:20170208205645j:plain




カルマを共有している要素の大きい近しい存在を大切にし、その人たちの運命が拓けるようにする。
まずは一番近しい神仏を尊び労る。

それが霊的な面での地固め、基礎作りに大切な順序なようです。




一休

時間も加速

そろそろ1月も終わりです。
やけに早く感じています。

次元上昇に伴い時間の進みもどんどん早くなっているのでしょう。

数年前と時間の感覚が違うのは、歳をとったからというばかりではないだろう。
急速に速度が上がっているように感じております。



次元が上昇するほどに速度は実際に速まるわけなので、

自分が低い意識で低い波動で生きていれば、本当にあっという間に時間だけ過ぎて行ってしまうでしょう。


しかし、自分自身が高い意識で高い波動で生きればよりいっそう密度の濃い、内容の濃い時間を過ごせるということでもあるわけだから、

断然そのように生きるべきところです。




f:id:ikkyuw:20170129022148j:plain





のんびりはしてられません。


こんなこと、去年まではそこまで強く思うことはなかったものです。
が、
今年は本当に何かが大きく違う。


私だけでなく、世界が、全てがそのように変わっているはずと思うところです。


一休

一人ぼっち

一人ぼっちの語源は、独り法師、あるいは独り坊主だそうです。


どの宗派、寺にも属さずに独りで山に籠ったり行脚したりしているような僧のことで、軽蔑したニュアンスの言葉だったようです。

破門されたり、集団に馴染めずのけ者にされたような人に対して使われていたようですが、
自分の考えではそういう人ばかりでなく進んで独りになっていた僧も多くいたのではないか、と想像します。



f:id:ikkyuw:20170125192919j:plain




周囲よりも真理を悟ってるような人は、形ばかりの俗っ気の多い真理に暗い坊主たちとは波長が合うわけがないし、

真理を探求してゆく道は、やはりどこまでも孤独な道であると私は感じ思っているのです。

あくまでも心の在りかたとして、ということなので周囲に人がいたらいけないということではないと思うが、
実際に独りになっている方が、周囲から邪魔されたり足を引っ張られたりということもなく、余分な争いやいざこざを遠ざけて求めるものを追求して行けると思うのです。


村八分という言葉があるように、
日本は村社会の集団意識、派閥意識が強く、お寺の中も然りだっただろう。

宗派間の争いもたえずあったであろうし、中は俗社会と同じ縦社会の権力争いもたくさんあっただろう、
結局多くの寺の内部は娑婆となにも変わらなかったのではないかと思えます。



f:id:ikkyuw:20170125192846j:plain



昔からそうだが、基本的に私は組織や集団のなかで生きるのが嫌いです。
馴れ合うのも嫌いです。

この独法師という言葉が、自分にはしっくりきます。



一休

一瞬、一点の変化

心身の変化というものは、一瞬で起こるものであります。

変化するのに必要なのは、ピンポイントの一点であり、一瞬です。



f:id:ikkyuw:20170121223953j:plain




一般に普及して流行っているヨガなどの運動では全体をあいまいに行うものであるので、心身にかかる負荷は少ないためやり過ぎなければ身体を壊すようなことにはならない。

しかし、本当に心が動き心が変わるために必要な当たるべき一点に当たらないから、変化もあいまいなものになる。

目に見える外側は柔軟になっても、目に見えない裡の変化は少ない。



詰り、滞りが抜けて行くのに重要なのは、心と身体を分離してしまっているその一点です。
そして抜ける時は一瞬であり、それ以上の負荷がかかっても足りなくてもいけない。



身体は、動きやすいところから動くという性質があるため、
あいまいな動作、意識的な動作では本当に動きにくくなっているところ、裡であり深部でありに動きが到らない。


動かなくなっているところとは心の動きの詰まりであり、
肝心なそこが動きだして来なければ、深い心、無意識が拓かれてこない。

表面的な外側がよく動いても、裡なる部分が動いてこなければ健康維持、リラクゼーション以上の行果がなかなか得られない。



f:id:ikkyuw:20170121223912j:plain




霊性修行で大事になるのは、
心が深く動いてくることであり、それが神性、仏性を引き出してくることであります。

心が深く動いてくるということは、意識が大きく拡がるということでもあり、
それは限定される要素が減って行くことです。


自分のため、が、

身近の人のため、になり、

より多くの人のため、になり、

生きとし生けるすべてのもののため、になる。


簡単に言えばそういうことでしょう。




f:id:ikkyuw:20170121223926j:plain



まずは自分のためです。

心が深まるには、滞りを無くし満たさなければならない。

自分の心が満ちて深まった分だけ、本当の意味で人のために生きられるようになるのであります。



一休

活路を拓く

今年に入った頃からでしょうか、
早く次の段階へ人生を進めて行きたいという気持ちがどんどん膨らんでいます。


今の仕事でやらなければならなかった課題、果たさなければならなかった目的というものも一段落ついているのを感じているものの、

しかしまだ次の進む形が見えてこないという状態であります。



むやみやたらと頭で考えてもこうしたことの答えは出てくるものではないので、

出来ることから動きをつけて行っております。
さしあたって、いつでも動けるよう引っ越しの準備です。

必要最低限の物以外は持たない。

これでもかというくらいまで身軽に整理して行こうとしています。




f:id:ikkyuw:20170121195343j:plain




今の自分のようなときや、
身辺の状況が滞ってしまっているようなときなど、

まずは出来るところから、身近に思いつくところから動きをつけて行く。

さすれば気は流れだし、流れが流れを呼び、活路が拓かれてゆくというものであります。




一休

食物と心

久方振りの更新です。

近頃は行、及び行に関わることに時間が割かれており、ブログを書くことはほとんど忘れております。

あまりに放っておくとブログのエネルギーが寂れてゆくので、少ない内容でももう少し頻繁に更新しようかなと考えているところです。



食物と心について

ウパニシャッド(インド古代の宗教、哲学の奥義の書)では、心は食物によって作られるとされている。

摂取された食物は大きく3つに転換される。
粗く重い部分は排泄され、中間の部分は血肉になり、繊細な部分は心になる。

純粋なものを摂っていれば、心は自ずと純粋になる。
食べ物の性質によって心は左右される。

肉、魚、アルコールなどは心を俗にするので修行者は摂るべきでない、としている。




f:id:ikkyuw:20170121033538j:plain



芸能人の杉田かおるさんは、有機野菜食に変えてから暴力的だった心が非暴力的な心に180度転換したそうです。



一休