参拝日記
自分の住んでいる処の一ノ宮なので、年に2回は参拝し感謝のご挨拶をするようにしています。
ここの境内に来るといつも感じます。
神社とその神々が宇宙と繋がっているのだというのがよく感じられるのです。
もう何年も前に日光の東照宮に行ったときも、とても強くそれを感じたのを覚えています。
だんだんと、自分の処へ巡って入ってくる情報も高度なものが増えています。
宇宙や地球、生命、此の世彼の世の成り立ちから、
神々の存在やその世界の様相、
歴史や宗教の真相など、
主にネットを通してだが、数年前では理解できなかっただろうし受け入れきれなかっただろうと思えるような高度な情報が、理解力が高まるにつれてなのだろう、入ってきます。
密教が何故秘密の教えなのかと言えば、その一つには、
まだ意識の低い段階にいる人に、その宇宙の真相を説いたところで決して理解されることはなく、毒にしかならないということがあるからだろう。
物事を理解するには、それを理解可能な意識レベルに到達しなければ無理なのであり、
それはつまり波動が上がらなければ無理なのです。
アインシュタインが言っていた、
問題を引き起こした意識領域に、その答えは存在しない、
というのは同じことで、
真実を覚ってゆくには、
自分の意識レベルが上がる、
すなわち波動(周波数)が上がる、
ことによって可能になる。
簡素に言えばそういうことでしょう。
一休
今日の日記
夏から続いていた課題の行も満行を迎え、今しばしの休息期間です。
今回行っていたのは、今後扱ってゆくヒーリングエネルギーの源泉にあたる神の力を得る行であり、やはり重要なものでした。
その神の御神体ともご縁があり、自分の元へ由緒のある確かなものが巡っても来ました。
前の記事に書いた車での事故が起きたのは、
実はこの御神体が来ることになったのと時を同じくして起きたものだったので、
おそらく新しく頂けたご縁で更にシフトアップしてゆくのに必要な業出しがあったのだろうと考えています。
今日はまた北鎌倉を散歩しに来て、今は大船駅のすぐ近くの、
かんのん食堂 で食事をしています。
魚屋さんと一緒になっている居酒屋食堂で、久しぶりに魚も食べました。
このお店は何度か来ているのですが、いつも活気があって明るい雰囲気でいいお店だなあと思っています。
私は行者であるからという理由以前にそもそもお酒は飲めないのですが、
ちょっとした付き合いなどで居酒屋に入ると、あまり良くない感じの気が漂っていることが多いというのが自分の感想です。
たまたまそういう店にあたってたからかもしれないが、
飲み屋さんという性格上の理由もあるかと思います。
飲んで日頃の憂さ晴らしとネガティブなものが吐き出されてるような、そういうお客さんの集まるところはやっぱりよくない感じなのだと思います。
此方のかんのん食堂では、お客さんを見渡しても悪酔いしてるような感じの悪いタチの悪い人は居らず、
ここにいると回りから陽気なエネルギーがもらえてます。
こういうとても感じのいいエネルギーのいい店にはやっぱりこれがきちんとあります。
きちんと神さまをお祀りして、日頃から大事にされているのがよくわかります。
神棚にいい神気が感じられるのは守護して頂けている証だと思います。
このお店はかなり歴史もありそうなお店ですが、
気の流れ、運の流れの中で沈む時期もあるのを乗りきって続いてこられているのでしょう。
こうした商売が永く続くのは、やはり神の加護が厚いからなのだろうなと思います。
いい商売をされているのでしょう。
一休
変化の話
1年前くらいから密教の修行も本格的になって行き、エネルギーも扱う法具も非常に強力なものとなって来ました。
瞑想行等に使う時間も長くなり、仕事は出来る限り減らして修行に時間を多くかけるようにもなっています。
いつ頃からかよく覚えていませんが、以前と大きく変化したことが一つあります。
以前は人混みに行くと、人や低級霊のマイナスの念波にすぐに悪影響を受けてくたびれてしまっていたのですが、
今はそういうことがなくなりまして、普通に特に問題なく人混みにも居られるようになりました。
かといって好き好んで居たいとは思いませんが、電車での移動に苦労が無くなったので楽です。
邪気の強いエネルギーの悪いところでもそれほどの影響を感じなくなり、
ある意味鈍くなったような感じもします。
エネルギー体が強く整って来るとこのようになることもあるのだなというのを一つ実感しています。
エネルギー体を語る上ではチャクラというものがよく出てきますが、
このチャクラも肉体同様、「弾力」が重要であると言います。
締まるべき時にグッと締まり、弛むべき時にサッと弛む。
開くべき時にパッと開き、閉じるべき時にフッと閉じる。
赤ン坊のように柔軟で弾力のある状態がいいわけです。
肥田式強健術の肥田春充氏は、その筋力を、
締めれば鋼鉄の如く、弛めばバターの如しと言われています。
低俗な欲求や性欲に溺れているような人の多くは、低い霊界や悪しき霊存在に繋り悪影響を受けています。
そうした低い欲求ばかりが強いのは下位のチャクラが言わば開きっぱなしのようになっており、そこから生命エネルギーが常に漏れ出ているからで、
そうした状態が続けば当然老化も早くなり寿命も縮まります。
閉じて開かず働きの悪いのも良くないですが、
駄々漏れも良くないです。
一休
江ノ島
今日は昼過ぎに瞑想行を終えて、その後江ノ島へ行ってきました。
着いたのは4時頃だったので人も少なく、最初に参拝する辺津宮も人は並んでいませんでした。
江ノ島の神社は辺津宮~中津宮~奥津宮と3つありだんだん登って行きます。
一番上の奥津宮は配置的に、海の向こうに見える烏帽子岩かあるいはそのずっと先にある富士山の遥拝殿になっているようにも思えます。
夏場は、夜も食事の店は19時まで営業していて(店の人の話では今日までとのことなので8月中は)
眺めのいい店でコーヒーを飲んで休憩しました。
そこで素晴らしい夕暮れが見れて満足です。
途中の江の島大師ではこの本を買いました。
著者の池口恵観大阿闍梨の衆生救済の実録ということで、時間のあるとき少しずつ読もうかと思います。
近代に伝わっている真言密教の中身にも触れているようなのでいろいろ参考にもなりそうです。
今日は一日ずっと強めの風が吹いてました。
いい風でしたが、荒々しい猛々しいというか、そんな雰囲気がありその分浄化も強く感じました。
龍神は風や天候を操ると言うから、今日はなにやらよく働かれていたのでしょうか。
三時間弱の滞在でしたが、
江ノ島はエネルギーが非常に高く日頃の行では得られないパワーもずいぶん満たされた感じがします。
浄化と充電のいい一日でした。
もう肌寒く、すっかり秋の夜ですね。
一休
夏の記録
この暑い夏、毎日数時間の瞑想三昧の日々です。
少なくとも9月の初めまでは今の行をみっちり継続しなければならないところです。
こう暑いと積極的な動きもあまりとれないので、瞑想修行に専念するにはちょうどいいと言えばちょうどいい時期とも言えます。
人生には動きのいい時期とそうでない時期とがやはりあるもので、
年齢を重ねて行くにつれてだんだんとそういったこともよく実感出来てきます。
「機」
なにかしら行動を起こすに当たっては、タイミングというものがあります。
風も吹いてこないのに一生懸命人力で船を漕いでもたいして進みはしないもので、
いい風が吹いて来るまでじっくり待って、
さあ今だというところで帆を張って一気に風に乗って進めるというものです。
この待ってる間に、如何に地道に未来の準備が出来るかというのは重要です。
動かざること山の如しで、この夏は瞑想三昧と、合間に読書と、
地道な修行勉強です。
労多くして功少なしにならぬよう、
自分自身をよく感じ、目に見えない流れを感じ読み取り、
そして心に従い、
今為すべきことを判断します。
一休
損害もカルマ
新たな行の最中です。
先月は初めて車で大きなもらい事故に遇うという業出しもありました。
周囲の人に話すと、
それは災難だったなとか、相手や保険屋にもっと文句言った方がいいとかいう話にもなるのですが、
霊性修行者としてはこうして降ってきた損害も歓迎すべき出来事、バッドカルマの取り除きです。
実際そうして取り除きとしてバッと起こってくれると、心がすっきりするという不思議な感覚になります。
この様なとき普通ならだいたい、苛立ってムシャクシャしたり気分が凹んだりするものと思います。
損失をどうにか減らそうとするなんてことも、我々の立場から見ればもったいないことです。
目の前に見えてるお金などの損失が減って満足したとしても、
人を言い負かしてやっつけて気分がすっきりしたとしても、
それでは目に見えない天のカルマのマイナスポイントをまた足してしまうことになります。
それではもったいない。
この道に入って始の間は、却って損したり馬鹿みたりするぞ。
それはめぐり取って戴いてゐるのぞ。それがすめば苦しくても何処かに光見出すぞ。おかげのはじめ。
次に自信ついて来るぞ。胴がすわって来るぞ。心が勇んで来たら、おかげ大きく光り出したのぢゃ。
悪く言われるとメグリ取ってもらえるぞ。悪く言うとメグリつくるのぢゃ。
悪いこと通して善くなる仕組、よく心得よ。
めぐりあるだけ神がうらめしくなるぞ。めぐりなくなれば神が有難いのぢゃ。
この道に入ると損をしたり、病気になったり、怪我をすることがよくあるなれど、それは 大難を小難にし、又めぐりが一時に出て来て、その借銭済しをさせられてゐるのぢゃ。
借りたものは返さねばならん道理ぢゃ。損もよい、病気もよいぞと申してあろうが。
<日月神示より>
本当の霊性修行者の考えや行為というのは、多くの人の目にはバカに映るかもしれない。奇異に映るかもしれない。
この世の原理、真理を熟知した徳のある人物には度々見られることです。
一休
今日の日記
なんとなく一年前頃に書いた自分のブログを読み返していました。
そう言えばこれを書いてた頃は今よりもずっと気楽に過ごしてたんだなと、当時を思い返していました。
早く次のステージへと身の回りの環境、状況を進めなければと思うようになってきた頃から、反対に足を引っ張られる感じも増えてます。
周囲の関わる人や状況の、低く重い波動がしがみついてきます。
もう一つ高い波動域へ進もうとしている今、例えればビルの一つ上の階へ進もうとしているところです。
そうなれば関わる人も、周囲の環境もたぶん大きく変わることになりそうです。
そこへ今の階にいる人やなんかが、上にあがるな、行ってしまうなとばかりにしがみついてきます。
自分の波動が落ちてくると、振り払えずに引き戻されて乱されたりするが、そんな時でも一つずつしっかりと波動を上げることに努めるしかありません。
階段を一歩ずつ昇ったり降りたりしながら、少しずつ上の階へ近づいてます。
やはり一段上の波動域にシフトアップするような時には、引き戻す力もずいぶんと働いてくるもので、
それは当然不快なものです。
もう今の状況や関わっている人の多くが波動が低く重く感じられてきており、
今の環境もだいぶ居心地の悪いものになってきているところです。
一休