一休 真実の探求Ⅱ ~引導の神々~

霊性修行、活元修行の日記、気エネルギー、神仏や霊的な事など             

日常をシンプルに

時間の進みがますます早くなっているのを感じる今日この頃です。

ここのところずっと状態の良くないのが続いていたので、尚更それを感じています。
一日が本当にあっと言う間で過ぎてしまう気がします。


そこで、日々日課になっているようなことも出来る限りシンプルにするように心がけていっています。

私は日々起きてから、神棚、祭壇等の世話と祈りから始めますが、
出来る限り余分な作業も祈り詞もなくして、
本当に必要最低限を目指すようにしてます。

他にも入浴やら掃除やらなにやら、出来る限り短時間で行えるように、と思います。



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何を行うにしても、その集中度合によって時間の進みは変化します。

集中密度の高い状態、好きなことに没頭している時などあっと言う間に時間が過ぎますが、
嫌なこと面倒なことをイヤイヤやっているときには時間が長いです。


自分の意識状態と時間の進む速度の関係には、物理的なカラクリがあります。



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これから更に時間の進みが加速して、一日のうちに出来ることも限られてくると思います。
時計の針は一日24時間でも、数年前と比較すれば23時間、22時間分しかありません。

出来る限り余分を省いて無駄な遠廻りをせずに、的を射た行いをすることがこれからは大切になりそうです。

人生全般においても、小さな誤りから大きく学ぶなどの積極的な柔軟な姿勢取りが問われて来そうです。



一休

信仰の変化

秋からずっと、密教の伝法は進んでいません。
心身の状態エネルギーの状態や身辺の状況等がもう一つ安定してこないために進もうにも進めない期間が続いています。

しかし一方で、
不安定ながらも浄化は進んでおり自己の波動は上がってきています。



これもエネルギーの原理で、

波動が上がるほどにエネルギーには勢いがつきます。
例えばそれは自転車に乗っているようなもので、
速度が出るほど安定感は増して乗りやすくなります。
波動が落ちればふらふらと不安定になります。

浄化の進んでいるときは、だいたい波動も落ちて不安定になります。
いろいろな濁り淀みが浮き出て現象化しているときです。


今は、特別な行などやらずとも浄化のエネルギーは日増しに強くなり皆に注がれています。

私は縁あって今の行を行うことになってますが、あくまでも自分にその必要があったからでしょう。



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この間に、
自分の信仰の形が大きく変わってきています。

以前は「神にお願いをする」姿勢が自分のなかにありました。
神に求める、姿勢がありましたが、

それが捨て去られて行っています。

求める姿勢のなかに、以前は気づかなかった、
小さな欲や自己の弱さを認めている、のを感じるようになりました。

明らかに良くない姿勢だったので、捨てました。


今一般的に行われている信仰の形は、お陰信仰である、と言えます。

これは民間人の行いだけではなく、神社仏閣側も、そこに仕える神職僧侶も含めて、そのほとんどに神頼みの姿勢が含まれております。

この形、姿勢に大きな違和感を感じるようになりました。


より高位の神とご縁を結ぶためにも、

我神仏を拝めど、神仏を頼まず


この姿勢が自然と身に付いて来つつあるようです。

これは自分としても、大きな飛躍のようにも感じています。



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一休

元旦に日記

数日前からひどい風邪をひいてまだ続いているところです。
症状からしてインフルエンザぽいですが、縁起のいい浄化と思っています。
たしか去年も正月を風邪で過ごした記憶があります。



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どんな風邪も上手にやり過ごせば本当に心身は良く変わります。古く蓄積された濁り物、濁った残留想念など出て行き洗われます。
抜けたあとは自己の波動も上がり、エネルギーの入りも一段上がります。
瞑想修行を日々行っている私にはそれがよくわかります。

が、多くの人にはなかなか理解されることもないでしょう。


病院で処方される殆どの薬は症状を抑える、緩和するための薬で、
薬そのものが風邪を治す訳ではなく、治しているのは自己免疫力(症状そのもの)である、ことを医者は当然知っています。

が、なぜか多くの人は処方された薬が風邪を治している、と思い込んでいます。


小さな例ですが人はこのように、
一度こうだ、と思い込んだ理解、認識に多くを束縛されています。

若いうちは、新しい別の情報を取り入れれば柔軟に認識を変えることもできますが、歳をとるにつれてそれも困難になりがちです。
心身共に硬くなり、頭も硬くなります。

中高年の多くが自分の生きた時代の価値観や認識から離れられずにいるものです。



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これまでの人間の歴史は「怖れ」が土台に築かれてきた社会です。
当然波動は低く重い。
まだまだ人々の意識の底にある集合意識には、過去からの低く重い残留想念(人間が作ってきたバッドカルマ)が蓄積されています。

これらがほんの数十年の間に一気に昇華されていこうとしています。
世間も社会もどんどん波乱に満ちて行くことが予想されます。

集合意識の底上げのために、
低く重い想念領域から脱け出ることのできた意識の覚醒者、が増える必要性もますます高まる、と思います。

一人一人が自己と向き合い、自分を本当の幸福へと導くことが意識の覚醒への近道、と思います。



いつの世も、時代の変革期には若い力が立ち上がります。
今世の中で幅をきかせている中高年に期待するものはありません。

この大きな変革期に、若い人達が新しい発想で新しい世界を築いて行くために、力を発揮して行って欲しいと思いつつ、

今年もスタートです。



一休

母性と父性

愛情というものを大別してみると、
「母性」と「父性」という分け方ができるかと思います。


陽の働きである父性(厳しさ、厳格さという愛、善し悪しの分別など、自立を励まし促す愛)


陰の働きである母性(すべてを受け入れて包む愛、現状を認めて癒す愛)


というような、大きく二つの陰、陽の働きの愛情があります。


当然、性別の特性として男性は父性的な要素を持ち、女性は母性的な要素を持つものですが、

性別とは別に、一人の人間の中にも両方の極性があり、男性ホルモン女性ホルモンがあるように、
父性愛も母性愛も混在しています。



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陰陽対極図にあるように、陰陽の働きはお互いが一つになり双方が補完しあうことで本来の働きをもつものである、と言います。

片一方ばかりが強すぎると、あるいは片一方が欠けてしまうと、
その偏りから問題が生じやすい、と言えます。

結局はエネルギーの原理なので、
これは一個人に当てはめても、社会全体(男性、女性原理社会など)に当てはめても同じことが言えると思います。


ちなみに、
古神道では母性愛の根源は天津神最高神天照大御神様(太陽神)

父性愛の根源は国津神最高神、国常立大神様(地球神)として祭られている、
というのが真実のようです。

そして日本の場合、それが仏教の神として顕れたのが、
大日如来(太陽神)と地蔵菩薩(地球神)であるようです。


1000年以上続いていたとされる神(陽)と仏神(陰)を合わせて祭る神仏習合の型は、霊的、エネルギー的に深い意味のある型であり、
これにより日本の国土、民も含め護られていた、
それが、
明治維新後、政府の神仏分離令によりこの型は壊され、日本の霊的な守護は大きく弱まっています。



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此の世は対極のバランス、により安定を保つ性質です。
それは振り子やシーソーと同じようなものです。

人の心身も社会も、自由自在な安定感はそのバランス取りに懸かっている、とも言えます。




一休

今日の雑話

今の学校では相変わらず「体育座り」をしているのでしょうか。

事実かはわかりませんが先日、この体育座りも戦後GHQが採った日本弱体化計画の一部、という内容の記事を読みました。

体育座りが、というより今の体育そのものに弱体化の意図が盛り込まれているとは思いますが、
この体育座りが奴隷や囚人にさせる座り方だった、というのはこれまでずっと知りませんでした。



野口整体、瞑想行を学んできた視点から見ると、
確かにこの座り方を学校教育で標準化していることは良くないかも、と思えます。

この座り方は自分を主張できる座り方ではありません。
腰腹を使うのとも真逆です。

身体特性によっては脱力を促せる、休まる座り方にはなり得ますが、
そうでなければ意思、主張を、
抑える、挫く、封じる、ような体勢です。
元気がなくなったり、項垂れたりしたときの体勢です。
確かに奴隷や囚人には相応しいかもしれない。

学校であまり多用されるべき座り方ではないかもしれない。


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教育は洗脳、とも言えるくらい、
当人の気づかぬ人格形成に大きく影響しているものです。
そうして作られた人格が社会を創って行くわけだから、
権力者は当然計画的な意図をここに多分に仕込んで、望む社会を作り上げようと画策します。

教育に限らず当然メディアもこうした一部の権力者の意図による仕掛けだらけなので、必要以上に触れることを私は避けます。



私は10代後半頃から、
自分の意思、自分の考えと思っていることが、
実は大人や社会に意図的に作られたものなのではないか?
これは本当に自分の考える想いなのか?
という疑問、疑いを抱くようになり、
それから主に独学で歴史や精神世界、宗教など学んで、自分の知らない自分の中を掘り探って行くようになりました。

ブログの題名にしている、真実の探求、はこの頃から始まっていると言える気がします。



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今主にメディアの力によって表面に映っている社会の様相は、本当の世の中を見せているものでは全くもってありません。ただの一面です。
大人になって実際に社会を見渡してくれば誰しもがある程度気づくわけだが、
それでも表面に映っている標準化されたものに人は振り回されてしまうのだから困ったものです。


これから数十年の間に、世界は大変革をしてゆくと思います。
大洗濯により、淘汰されてしまう人も多く出るだろう。

日本の憲法も教育も、大きく変革して行かなければならないものと私は思っています。


一休

仕事

「仕事」とは、

「事」に「仕える」と書きます。



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与えられた、事に仕えることで我を抜いてゆく訓練としてあるのが仕事の本来である、と教えられたことがあります。

我(私、私的なもの)が抜けてゆくにつれて、その人の行う「事」は、
より他人のため、世のため、自分自身のため(神性、仏性、真我など本来の自己)の行いとなってゆきます。


苦しみの元となっているものは、この我(私)へのとらわれである、
とも言えます。

我へのとらわれを抜いてゆくことが大きくは悟りへの道であり、
それは個々人それぞれの喜びの道、幸福の道である、
と、釈尊はそのように伝えているものと私は思っています。




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私は、尊敬する人や、頭が上がらない、と思う人のほとんどは皆仕事人です。ジャンルは問いません。
霊的なことを扱う人やスピリチュアルマスターといったジャンルの人にはほとんどいません。



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禅寺の修行では、趺坐を組んで行う瞑想以外に、日々行う諸々の雑事を「作務」として行いこれも瞑想修行の一つのアプローチとして為されるものです。

どのような雑事であっても、今行っている事に心を集中させ、
今、この時、のみに意識を使ってゆくことを訓練し、我へのとらわれを抜いて行きます。

まさに「仕事」です。


どのような職の人でも、その道で艱難辛苦を越えて我が抜けて、意識の拡大している人を見ると、如何に今の自分が小さいかを思い知らされます。

霊性修行の一番中心となるものは、実は瞑想行でも霊的技法を扱うなどでもありません。
事に仕え、我を抜いてゆくことです。



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人は仕事をするために生きているわけではなく、
もちろん遊ぶために生きているわけでもない。

可能な限り本来の自分を生き、より本来の自分へと還るために生きている、
と、今の私は思っています。



仕事には困難がつきものです。
結局多くの人は、
仕事を通して、「事に仕える」ことが、

本来の自分を感得してゆくもっとも身近な足掛かりになる、ということでしょう。



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だから人には仕事が与えられるのでしょう。



一休

無理なことは不要なこと

ベジタリアンを実行することになってから約一年経ちました。
制約として与えられたという面もあるため、余計なことを考えるよりもまずは可能なことを行って来ました。

一年感じながら試して、
いろいろと単純ではないことを思い、結果今としては完全なベジタリアン食はやらない方がよい段階であることが分かっています。



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師匠たちはほぼ完全なベジタリアン食ですが、
今の自分が行うものとはその中身、条件が全く異なります。

ほぼ自給自足で、とても新鮮でエネルギーの高い状態のいい食物ばかりを摂ることが可能なのが師匠たちで、
自分が今の生活で行えるのは、普通にスーパーで買う食材しかなく、自炊する時間も限度があるので実際には外食や買うことも多い。
無理なく行う、ということでもそれで限度です。それ以上は無理矢理な感じになるため違うと感じます。


そして今のエネルギーの状態です。
師匠の状態、と置かれている生活環境(エネルギーの高い山の中)くらいになれば、
食物から摂らなくても受け取れているエネルギーが沢山ありますが、
今の自分が受け取っている空間に遍在するエネルギーは格段に少ないです。

その辺で買う食材食物でベジタリアンをして心身のバランスを調えるのはやはり無理なのだとわかりました。




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心身の要求、と

状況の導き、と


これを軸にすることがもっとも正しい判断ができるということを改めて思っているところです。
頭であれこれ考えても、考えてるうちはわかりません。
意識的な努力をしても、してるうちはベストなところに納まってないです。


物事を行うには時期というものがありますが、
本当に行うべき相応しい時には、無理なくそれが可能になる状況が自然と整って来るというものです。
これは先輩たちも皆言います。


無理を感じることはその時は不要なことであり、
無理矢理は不要です。

今可能なことが、今の自分に相応しいことであるということを、
改めて思っています。



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無理を通せば道理(自然の理)が引っ込みます。



一休