密教加持
私のやっている密教の一番中心的な修行は瞑想です。
その瞑想行は日本の仏教の言葉では「密教加持」になります。
日本の密教についても、仏教用語も含めて歴史や理知的な部分も学んでいっているので、復習や自分の中でのまとめの意味でぼちぼち書けたらなと思ってるところです。
加持については詳しく書くのはまだ控えますが少しだけ書きます。
行者としては神仏との繋りを深めるための行であるということが一つには言えます。
他者のため、あるいは他の生命(動植物など)のために加持を行えば、それら生命が本来持っている善なる力とでもいうべきものを呼び起こしたり活発化させる働きがあります。
人間で言えば病が治るとか、運命が良くなる(悪業が軽減する、霊的障害を除ける)とか、所願成就の助けになるということもあります。
昔は畑に撒く種や稲などにも加持を行う風習があったのだそうです。実際力のある行者が行えば豊作にもなっていたのだそうです。
今で言えば畑の作物にモーツァルトを聴かせるとよく育つというのが似たような効果と言えるでしょうか。
密教加持と言ってたぶん一般的にイメージするのは護摩の焔でしょう。
護摩壇や火鉢で火を焚いて行者が祈ります。
火を使った密教の加持祈祷です。
成田山や深川不動、川崎大師といったとこで大きな規模で行われていますが、
護摩の焔に仏様を勧請(召喚する)して祈りを届けやすくします。あるいは仏の力が現世に発露しやすくします。
護摩は力がありますが毎日できるようなものではないので、日々の行では普通はやらないものです。
私の上の師匠のとこでもやりますが月に一度くらいです。
日々の行では本尊を前にして(本尊が無くても)神仏と(特定の意識領域と)繋るための真言を唱えエネルギーを同調させてゆきます。
見た目は地味なものです。
が、地味に地道に行うのが仏陀や空海お大師様が伝えている他力(=神仏)の行の基本です。
一休
今日の日記
この前伝法を受けてから、より一層瞑想行を軸にして過ごしています。エネルギーも大きく動いており、できる限り時間をかけたいと感じているのでそうしています。
瞑想行と、他の邪気抜きとみっちり行いながら淡々と日を送っているが、心は激しい激情にもかられている。
激しい怒り、恨みと憎しみ、自分の中のドス黒いものが行の力で出てくる。
瞑想行はある程度力が動けば心地いい。心身が調えば快がある。でもそれだけじゃない。
自分の中の錆びついてたのも剥がれ落ちてドス黒いのも溶け出す。
そのドス黒い激情にも向き合わされる。自分の真の姿も突きつけられる。
人の生きるの死ぬのってのは、綺麗事で済まされるものじゃない。それを確認させられる。
世の中には、ドス黒いものは見て見ぬふりをしてやり過ごそうとする人達もいるが、それが真実だとは思えない。
怒りも憎しみも恨みも、生きる力だ。
それを錆びつかせて命を終えることが本当だとは思えない。
わからない答えはいくらでもある。
それでも、自分の心に従うことが正しいってことだけは、
それだけは揺るがない答えとしてある。
人には宿業ってものがある。
誤魔化しようのない、飲み込むしかないものがある。
どんなに不味くても吐いても飲み込むしかない。
それをしないと自分の人生が果たされない、そういうものがある。
実体を映せば影ができる。
光を見るのは闇も見るってことだ。
一休
神仏の加護物品
今後修行を進めて行くにあたり必ず必要になるであろうある物を上の師匠へ依頼しており、それが先日手元に届きました。
今自分にもっとも深く縁があり与えられている法の系譜はヒンドゥ、バラモンの流れを汲むものが中心的で、今回拝受した物もその系譜のもので確かな由緒のあるものでした。
ブログでも度々書いているシヴァ神です。
シヴァの御神体です。
シヴァの御神体(シヴァリンガム)は卵型のものとこの形のものとがありますが、
修行という点からはこの形のものには隠された深い意味がありそれが重要になります。
少しだけ書くと、一つには男性エネルギーと女性エネルギー(陰陽)の結合で得られるクンダリーニエネルギーに関わってきます。
一人の人間の中に双方のエネルギーを生み調和をはかることなどに関係しています。
他にも専門的な意味や理由がこの形象や色にあるということだがとりあえず置いておきます。
こうした物品はそこに籠められているエネルギーと繋がっている系譜などがとても重要となります。
入魂等がされていないものだとただの飾りになってしまうし、それでいて人型をしているものなどは特におかしな存在も入りやすいといいます。
信用のおけるか分からないものを無闇に持つことはしない方がよいと初めの頃私もよく言われました。
神仏と呼ばれるもののエネルギーはどれもとりわけ高波動である、のが自分の印象です。
エネルギーが繊細で清浄度が高いです。
この御神体もそうです。
あまりに清浄度の高い聖地とかでは普通の人の心身では順応できないともいいます。
私は行ったことがないのでわかりませんが、
それはまるでマンガ原作版の風の谷のナウシカのようです。(原作では、ナウシカ達の種族は腐海の毒に適応できるよう人工的に操作された人間種で、やがて腐海の果てる先に作られるよう計算された清浄世界には身体が適応出来ず血を吐いて死んでしまう、腐海の毒がなければ生きられない身体になっている)
実際に死んでしまうことはないと思うが、普通の人の穢れた身体では適応出来ず不調は起こるのだと思います。(それ以前に妨害されてそうそう踏み込めないだろうという気もするが)
神の世界はそれだけ人間の持つ穢れとは相容れない清浄な世界なんでしょう。だからこそ神仏と関わる修行者はその穢れをひたすら落とし洗濯し続けます。
ともかく、高位のもの、高度なものほどだいたい清浄度は高いと思います。そして峻烈な印象もあります。(あくまでも自分の感覚的な実感です)
ネットで神仏の物品など検索してみると危険な物も見かけることがあります。
宗教団体やそうした集まりのようなところで取り扱ってるもので明らかに魔界のエネルギーの物もあります。
宗教団体やそうしたサークルそのものを否定する気はないのだが、エネルギーを見る限りは変なものが背後にある団体やサークルはどうしても多くあると思います。
新興宗教や民間のサークルに限らず仏教寺院、お坊さんにも変なものに動かされてる方がどうも少なからずいるみたいです。
気をつけないといけません。
個人的なご利益を目的に神仏の加護物品を求めるような場合、やはり身の丈にあったものというか、神仏を尊べる気持ちに比例するくらいのものを求めるといいのかなという気がします。本来軽率に持つようなものではないと思いますし、
そうでないと自分に悪影響を与えるような変なものが巡ってきてしまうかもしれません。そうなったら大変です。
一休
レベルアップ前に起こる妨害
もう一段レベルアップする時や、そのための何か新しいご縁が結ばれる時などに、思わぬ妨害が起こることがあります。
一種の業出しと言えるのでしょうか。
私は密教の指導者の元へたまに行きますが、その道中にスムーズに行けないことが度々あり、どうしたものかと思っていました。
朝目覚ましがならなかったり、車で行く時には渋滞で動けなくなったり、
明らかに何か足を引っ張られてるように感じることがあります。
日常の他の予定や仕事でそうしたことはまず無い、と感じるのだが、何故か密教の行に関する時ばかり変に足をすくわれるのを感じることがあるのです。
日常の予定や仕事で上手く流れずトラブルが起こるようなときは感覚で分かることがほとんどです。
自分の心身が、気が明らかに乱れてネガティブなものや荒れたものが出てきているので、そうした時は慎重にしています。が、その心の状態がそのまま反映されてるような上手く行かない何かが実際起こったりします。
しかし密教の行に関する時は感覚で読めない、唐突にハプニングが来るのです。
今はタイミングが違うのかなとか、止めたほうがいいのかと考えてしまうのですが、
それでも心の声はそのまま進めと言っている。
こういうのはどうしたものかと指導者に話してみたところ、
指導者はじめ先輩たちも皆そうしたことが起こるということでした。
修行でレベルアップする時や新しい縁がある時には大概そうしたことがあるという話をされました。
新しいもう一歩進んだものを得る時にはそうした妨害を踏み越えて行かねばならんのじゃという話でした。
それでも神の後押しがある時にはなんとかなるものじゃということです。
密教の行では特殊な力を使ったり、特殊な強い縁結びがあったりもするので一気に飛躍することがあるからかもしれない。
低い意識領域からの一種の憑依かと考えています。
新しい自分に生まれ変わるときに、古い自分が留まろうと働くからかもしれない。
一休
亀の歩むが如く
行果を上げるために師匠の行場へ定期的に行って修行をしたいという気持ちが少しずつ出て来ているところです。
修行をするのに最適な霊的環境の整ったところなので、もし行ければ進歩も早まるだろうと思うのだが、そのための状況が整わないのでどうにもまだ難しそうです。
仕事も休まなければならないし、旅費もかかるためそう簡単ではないです。
修行というものに焦り逸り、早く結果を求めることは禁物で、とにかくゆっくりじっくりやりなさいと言われます。
聖者は皆そう言うのだそうで、私の指導者はそう諭され、私は指導者からそう諭されてます。
よく理解はできるのだが、気持ちとしてはなかなかそうも行かずに逸ることや結果が出ずに嘆きたくなったりやけくそな気持ちになることもあります。
正しい法であればこそ、行果はすぐに形には現れてきません。
安易に即物的な結果が出ないのは、正しい法であるが故です。
修行者にも修行者なりの望みや願い事、悩み事や問題ごとの解決など、人だから様々あります。
が、正しい法(修行)によって安易に望んだ結果は出てきません。
正しくない法(邪法)では安易に望んだ結果が出たりします。
魔の類いの力によったり、一時的に結果を引き寄せただけだったりするのが、
愚かな人はそうした目くらましに騙されてしまいます。
以前、縁切り神社のことを書いたがそれなどもそのよい例で、
まっとうとは言えないような願掛けをして、それでご利益があったと喜んでいる人もたぶんいるのでしょうが、そういうのは一時的に結果のみを引き寄せただけで、そうなった分おそらく他の誰かに負わせています。
負わされて難を受けてる人がいます。
自分が消化しなければならなかったカルマを他の誰かに負わせて、その時の難を逃れるなどすれば、倍返しでいつか却ってきます。
借金をしていて、返すときがきた(難が降ってきた)
が、返せば金欠で苦しくなるため消費者金融で借りてそのお金で返した(他の誰かに負わせてその場をしのいだ)
というようなことです。
こうすれば当然利子は高くつくし、最悪最後には取り立て屋がきます。(消化すべき時にしないで他人に負わせたりすればバッドカルマは膨らみます)
カルマというのはエネルギーで言えば正と負のエネルギーバランスを保つ働きの表れで、
因果応報ということの土台になっているエネルギーの法則性です。
前世とか先祖とか民族とか、過去も未来も時空を超えて広く大きな括りで働いているこのエネルギーのバランス均衡の表れが、善業悪業のカルマです。
功徳を積むことでマイナスを相殺、軽減し、善徳貯金を増やす、
意識を高め波動を上げる(エネルギーの底上げをする)ことで悪業が断ち切られるようにする、
と言ったことで確かな結果が然るべき時に訪れるのだ、ということです。
それがまっとうな修行で得られる結果です。
修行とはどこまでも地道に進むしかないものです。
なんでもそうだと思いますが、確かな本物、確かな結果を得るにはカメの如く地道に進むしかないということです。
一休
善であるが故
人の身体は、ネガティブなものを溜め込むと歪みます。そうして不調や病気も起こります。
それは元々、人が善なるものであるが故でしょう。
元々がネガティブなのであれば、それで身体が歪んでしまうこともないです。
人は、生まれながらにして善である、
神のわけ御霊であることが、そこに表れております。
自分の裡に神なるものが宿っていることの証でしょう。
自分の中に宿る神は、魂座と言われる座におわします。
が、この魂座が無くなると神はそこにいられなくなり元あるところへ帰ることになるのだそうです。
魔には魂座を喰らうものがあるといいます。
凶悪な魔の憑依がつよくなると、喰われて無くなってしまうことがあるとのこと。
ナチスの軍人や、凶悪な犯罪者などにも、更正の余地がない、良心が完全に失われている者はこの魂座が無くなってしまっているそうです。
魂座は一度無くなってしまうと元に戻ることはなく、つまりそうなっている者は何年更正施設で過ごしても、何をやっても改善することはないのです。
死刑の基準は、ここに置くべきなのが正しいのではと思っています。
科学的に検証出来ればそれが最も良いと考えます。
一休
酸化を防ぐ
先程はじめてルッコラを買ってお浸しにして食べました。エグみも消えて美味しかったです。
私の今住んでいる地域は東京ですが周りは農家が多く、道路っ端で野菜を売ってるところがあちこちにあります。採れたての野菜はやっぱり美味しいです。スーパーより安いのもいいです。
ルッコラの栄養価を調べてみたら抗酸化作用があると出てきました。他の栄養価も高いみたいでした。
抗酸化作用、これは修行においては結構重要なカギを握っています。
密教の行で学んでることですが、肉食をしないなども身体の細胞の酸化を防ぐ意味が大きくあります。
アンチエイジングとか、美容で求められる要素はけっこう修行者の求められるものとかぶります。
本質的に健全な心身を作ろうとする、という点では重なるところも多いのです。
老化とは、細胞が酸化してしまう、エントロピーの法則性に従ったもの、と言われています。
修行者には人智を超えた長命な人も多くいます。
食物だけではなく、いろいろな方法で酸化を防ぐ(体内をアルカリ性に傾ける)ことをしています。
老化だけでなく邪気の発生には、体内が酸性に傾くことが深く関わっているとのことです。
心身の邪気を抜いてゆく浄化ということに深く関わるということです。
一休