臆病風が吹いたら
躊躇ったら前へ出ろ、
躊躇い迷って身動きがとれなくなるくらいなら、間違っても失敗しても前へ踏み出せ
今日あることがきっかけでこの大事さを思わされました。
これは誰にでも当てはまることでは無さそうですが、
整体での体癖で言う「捻れ型」のある人には当てはまることと思います。
捻れ型は日本人にはとても多く、負けたら悔しい負けん気、という感性を持つ人は皆これです。
躊躇い迷うことの元が怯え、恐怖心だったとしたら、
そこで一歩引いてしまうと捻れ型は勢いを失う。前へ推し出るはずの力が身体の内に籠って停滞してしまう。
そうして身体が歪み勢いも逞しさも失う。
捻れ型はやっぱり前のめりで生きなければいけない。
とまどったら次の瞬間グイッと一歩前に踏み出さないといけない。
私は昔は、とくに子供の頃は人一倍臆病でした。
臆病風に吹かれて前に出るべきところで引いてしまう、そういう生き方をとくに子供時代してしまったから、それで失ってきたことはたぶん相当多い。
恐怖心も、それはカルマだなんだと言えば何かご大層なものにも聞こえるが、とどのつまりはただ臆病だっただけと言える。
ただ臆病に負けて生きてしまったから、今困ることになっている、そういうものは相当多いです。
躊躇ったとき、そこで一歩引いてしまうことで人生が変わってしまう、
思い返してみると、こういうターニングポイントは過去に沢山あったなと思います。
一つ一つの出来事は些細なことでも、その積み重ねは実に大きい。
躊躇ったその一瞬、引かずに前に踏み出していれば、
あのときこのとき、常にそう出来てきていれば今の自分は全く違った人間になっていただろうと思う。間違いなく。
前に出るべきときに引いてしまった、
一言物申さねばならない時に、言わなかった、言えなかった、
その一つで、人の勢いは内に引きこもり身体を歪め、心を歪め、生き方も捻じ曲げてしまう。
そうして生きる勢いを失ってしまう。
躊躇ったら、怯えたら、びびったら前に出なきゃいけない。
自分の課題です。
戒めのために書き残しました。
一休
正邪の区別
「正邪の区別」
正しく法を身につけて来ている行者にはやはりこのことを強く言っている方が多い。
「神変とはまた大小あり。世間外道もなお神変を起こす」
とはお大師様の言葉だそうです。
正しき神力は実益(悟り)につながる。
要するに人間的、霊的成熟に利益がある。
これが何よりも第一義。
外道の神変(一種の魔力)ではお陰が現れても実益が第一義にはならない。
釈尊もお大師様も、ここのところはものすごく重要視してシビアに説かれているようです。
だからこそ教えとしては霊的なこと、悪霊とか霊界のこととかはとやかく言っていない。
そうではなくて八正道とか、正しき神意に沿って生きるための心構えとなることを強く説かれている。
幸不幸を決めるのは業(カルマ)であると。
だから業というものを正しく理解し、その知性(智慧)をもって正邪を見極めなければいけないと。
少なくとも表向き強く説いているのはそうである。
宗教団体の幹部の刑が執行されましたが、こうした団体にも仏教を説いているものが多くある。
修行として密教技法を取り入れているものも多くあるでしょう。
が、やっていることは外道で、おそらく熱心にやればやるほど自我を失って頭がおかしくなってゆく。
宗教霊は非常に危険だと思います。
一旦取り込まれてしまえば抜け出すのは困難になる。麻薬と同じで脳内にダメージを受ける。コンピューターで言えばウィルスに侵されたような状態です。
自力だけで正常に戻すのは難しい気がする。
仏教を謳っているからと言ってなにも正しいとは限らない。いくらでも都合よく引用することはできる。
お陰で釣ったり、魔の霊力で惹き込むこともできる。
人として正しくあろうとする、強くあろうとする、
そういうことを失ってしまったら、この濁世では魔の餌食となってしまう、身を危険に晒すことになるだろう。
一休
日々の瞑想の話
心境的にブログを書くような気持ちになれないでいるのだが、せっかく時間があるので少し書きます。
気持ち的に苦しいのと、未来や目的、自分自身のことが見えなくなっていて、
どうしたものか?どうするか?
濁った気持ちで過ごしているところです。
私は日々の祈り、マントラでの瞑想を日課としているわけなのだが、その大事にしているのにガヤトリーマントラがあります。
ガヤトリーマントラは有名なので興味のある人には知ってる人もいる思います。
ガヤトリーマントラといったらサティヤサイババというイメージなのですが、私はサティヤサイババを特に信仰などはしていません。
興味も湧いてないのでよく知りもしないのですが写真を観るかぎりでは、自分の大事にしている神仏のエネルギーとは似つかない別物のエネルギーをしてる人、という印象です。
それはそうと、
ガヤトリー瞑想はもう長く日々365日休むことなく続けています。
どうしたことか、これだけは毎日積み重ねるべきという気がしてそうしてきているが、最近なんとなくその意味が感じられてきたのか分かってきた気がしています。
よく、最も功徳があるとか、罪穢れを祓うのにいいとか、本質的な叡智を求めるのに優れているとか言われますが、
その意味するところがうすらぼんやり感じるようになっています。
真言密教ではまず大日如来を拝みます。大日如来は最も根源的、本質的な存在(エネルギー)であり、ありとあらゆる全てのものは大日如来の顕れであるとされます。
当然その他の諸仏も大日如来から派生しているいわば大日如来の一部、なわけです。
善業悪業全てのカルマも大日如来というエネルギーに内包されているようなものと言えます。
どの仏様を拝むにしても、平行して大日如来は拝むのが形としてはいいというのです。
神道での神棚の祀り方を見ると、中心に総産土神である天照大御神を祀っています。その隣に自分に直接縁のある神社を祀っています。
最も根源的な存在の神を中心に据えながら、縁あるものを拝む、というのは形としては似たような形になってる気がします。
中心の伊勢神宮は私的なお願いをするようなところではありません。
何が言いたいのかというと、
要するに最も根源的なところへ意識を向ける、というのは外しちゃいけないのかなと思っているのです。
最も根源的、本質的なところに意識を向けるという、これを外してしまうと目先のご利益を求めることに力(エネルギー)が傾いてしまう恐れがあるのでは、と言いたいわけです。
そこに意識(エネルギー)を向けるということは、向こうからもエネルギーが来ることを意味します。
現世利益ということも、霊的、人間的成長、進化のためのご利益ということが先に、土台にないと本末転倒になってしまう。
正道を歩もうといったときに、このことは転ばぬ先の杖とでもいえるような気がする。
今の自分にはガヤトリーマントラがその一つの方法論なのかもしれない、と思うわけです。
私はこのガヤトリーマントラもある系譜の伝法を受けてます。ので普通の人が唱えるのと異なり力も大きく動くのですが、
マントラを唱えたら即物的に実感できるご利益が得られる、というようなことはまず無いです。
そもそも今狭い視野で見えているだけの狭い世界から解き放たれてゆく為にあるのがマントラの科学なのだから、今欲しいご利益を降らすためにあるのではないのです。
恩寵はあるが辛辣なことも多い。
もちろん人によって効果の顕れは変わるはずです。
一休
修行日記
苦しいものが出てくることで、壁も感じています。
「障道の因縁」をよく感じ、そうして、
超えなければならないものがこうもあるかと、立ちはだかる壁を感じることとなっています。
それらを超えるためにも、本物の強い加持力を得るためにも、瞑想行をもっとやるしかない、と強く思わされている。
出来ることなら山に籠ってひたすら瞑想行に没頭したいと思うほどの気持ちです。
が、状況が許さないので今はそこまでする時ではなさそうです。
限られた時間で行に当ててゆくしかありません。
我々にとっての瞑想行は、野球や剣道で言えば素振りです。
一番基本であり、同時に全ての要素が詰め込まれてます。
これの完成度が上がることが実戦でのパフォーマンスレベルを決めます。
霊性修行、御霊磨き、ということで言えば瞑想行ばかり沢山やればいいわけじゃない、ということになるが、
加持力を得る、為にはやはり反復練習を重ねて緻密に練り上げて行かねばなりません。
立ちはだかる壁を感じるほど、苦しくなるほど、
それをぶち壊し超えるために今は瞑想行にぶつけてゆくしかないという気がしているところです。
身の回りの状況にあまり大きな変化がないままこの一、二年過ごしています。
飛躍を遂げたいと思いながらも、そうそう大きな進展があるわけではない。地道に修行が進んで行っているだけです。でもそこだけはトータルで顧みるとそれなりに順調に進んでいると言えます。
まずは今出来ること、可能なことは何か、というのをよく見つめてみるのが大事なんだなと思っているところです。
出来ないことを無理にやろうとしたり、進むことばかり考えたところで上手くゆくものでもないんだなと。
今与えられてる中で、尽くすべきは何か?
尽くすことが出来るのは何か?
今ある状況を、今与えられてるものを最大限使い尽くしているか?
そう考えるといろいろ見えてきて、
今は瞑想行にもっとのめり込んでゆくことが最善な時だ、と感じられている。
今与えられてるものを使い尽くさない限り、次が与えられることはないんだなと、
そんなことを感じ思っているところです。
一休
今日の日記
東京は梅雨の晴れ間でいい風が吹いていました。
修行修行で浮き出る苦しさに対峙することに気持ちも傾き過ぎていたところで、
今日は瞑想行の後軽く気分転換に出ました。
梅雨時期は心身共に鬱滞しやすい時期です。
整体では、活元運動も動きが出にくくなる時期です。
でも一旦でるとすごく深いものまで出てくるとも言われる時です。
そして夏に向けて身体が準備をする期間でもあります。
大自然の流れとしては雨での祓いの時期とされます。
自分としては、深く沈んでる膿を出すための期間と思って過しています。
この時期に黒く濁ったものが浮き上がって来ているのは悪くないと思っています。この際もっと深く出したいところです。
池袋を少しプラプラしました。
気分転換にいいちょっと気に入ってる店がありそこにも寄りました。
MARUZENというカフェと文房具屋が一緒になっている店で、ここのエネルギーは気分が穏やかに落ち着きます。ただいかんせんコーヒーが美味しくないのが残念でなりません。
私は文房具なんて普段はあまり使うこともないのですが、波動がいいので見ていると買おうかと思ったりします。
密教の勉強をするのに必要になった文具はここで揃えました。
店の中に何故電車があるのかが不明です。
少し気持ちも休息できた休日でした。
一休
苦しみの故に
なぜ自分が密教の行法や活元瞑想をやっているのか。
その一番の理由が、苦しいからなのだ
というのを近頃とにかく味わわされている。
状態のいい時は探求心とか好奇心とか、他の存在のためにもだとか、他の理由と思える時もある。
が、おそらく一番の理由は自分自身が苦しみから逃れるためにやっているのである。
苦しみから抜け出すため(解脱する)という方が言い方は正しいのかもしれないが、
実際の自分の感覚では、半分は逃れるためのようにも感じられる。
心身に抱えているカルマやトラウマの苦しみはごまかしで逃れることができない。
ごまかすことも避けることも出来ないことが実体験で分からされて、
それから、自分で自分を救い出す手立てを必死で追った結果巡ってきた縁がこれらの行法である。
逃げてるんではなくて、逃れられないからやっている。
苦しいからやらざるを得ないのである。
もちろん自分で選んでいることだから、やらされている気持ちはない。が、もし苦しくなければもっと別なことをやっていただろうとも思う。やってみたいこと、突き詰めてみたいことは他にもあったと思う。
近頃苦しいものが出てきているからこんなことを思うのかもしれないが、
それだけ、自分の背負っている業縁に見えずに翻弄され続けているということです。
行に向き合い、現実に向き合い、
斬り込んで、飲み込んで行くしかありません。
あとは野となれ山となれ
一休
真言は救世者なり
私に与えられている法縁の特徴は、
加持力を得る、ことが主眼に置かれていることだと感じています。
加持力とは、ざっくり私流に説明すると、
行者の祈りの力による救済力、とでも言うものです。
行者の扱う祈りの方法、この中心的なものが真言(マントラ)を使う方法です。
空海お大師様が開いた真言密教の元になっている大日経では、「真言は救世者なり」とされています。
真言には救済力があります。
今はインドの文化も流行りで入ってきているのでサンスクリット語のマントラもそれほど珍しくもないかと思います。
日本の密教で扱われている真言は中国を経由して入ってきているから訛っていますが、元はサンスクリット語です。
今の日本で仏教というと、ほとんどが葬式仏教でしょう。
病気や人生の諸問題の解決を僧侶に相談して求めるということは少ないだろうと思います。
相談を聞いてくれる僧侶はいても、本当の救済力である「加持力」を持った僧侶はやはり今はもうほとんどいないみたいです。
今の仏教界をよく知る真言密教僧がそう言っているからたぶん間違いないのでしょう。
今では「真言」を掲げている真言宗の僧侶でも、加持力を得るための修法に力を入れている方は少ないという話です。
私はこの加持力の救済力を多少なりとも知っています。
今の段階ですら、その力の本物であることを実感しています。
奇跡を起こす、までの力はまだまだ未知ですが、それでも大いに実感しているものがあります。
だからこそ修してもいます。
本物の強い加持力を得るのに、
自分にはまだだな、というのを今ちょうど感じているところです。
「障道の因縁あり」
これをよく感じているところでして、
要するに前世や家系のバッドカルマの影響を多く受けているうちには事が成就しない。本物の強い加持力は得られない、ということです。
とにかくまだまだなんだなというのを近頃感じさせられているところです。
幸い上の師匠のところにはそうした因縁から解脱するための行法もあります。
真剣に段階を踏んでゆけばそこに至る、それを超えるチャンスはあるかな、というところです。
真言を扱うものには正も邪もあります。
無闇に扱うことは霊的な危険も伴うことがあります。
そういったことも気が向いたらちょいちょい書いていくかもしれません。
一休