一休 真実の探求Ⅱ ~引導の神々~

霊性修行、活元瞑想行、気 エネルギー、神のヒーリング

仕事

「仕事」とは、

「事」に「仕える」と書きます。



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与えられた、事に仕えることで我を抜いてゆく訓練としてあるのが仕事の本来である、と教えられたことがあります。

我(私、私的なもの)が抜けてゆくにつれて、その人の行う「事」は、
より他人のため、世のため、自分自身のため(神性、仏性、真我など本来の自己)の行いとなってゆきます。


苦しみの元となっているものは、この我(私)へのとらわれである、
とも言えます。

我へのとらわれを抜いてゆくことが大きくは悟りへの道であり、
それは個々人それぞれの喜びの道、幸福の道である、
と、釈尊はそのように伝えているものと私は思っています。




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私は、尊敬する人や、頭が上がらない、と思う人のほとんどは皆仕事人です。ジャンルは問いません。
霊的なことを扱う人やスピリチュアルマスターといったジャンルの人にはほとんどいません。



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禅寺の修行では、趺坐を組んで行う瞑想以外に、日々行う諸々の雑事を「作務」として行いこれも瞑想修行の一つのアプローチとして為されるものです。

どのような雑事であっても、今行っている事に心を集中させ、
今、この時、のみに意識を使ってゆくことを訓練し、我へのとらわれを抜いて行きます。

まさに「仕事」です。


どのような職の人でも、その道で艱難辛苦を越えて我が抜けて、意識の拡大している人を見ると、如何に今の自分が小さいかを思い知らされます。

霊性修行の一番中心となるものは、実は瞑想行でも霊的技法を扱うなどでもありません。
事に仕え、我を抜いてゆくことです。



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人は仕事をするために生きているわけではなく、
もちろん遊ぶために生きているわけでもない。

可能な限り本来の自分を生き、より本来の自分へと還るために生きている、
と、今の私は思っています。



仕事には困難がつきものです。
結局多くの人は、
仕事を通して、「事に仕える」ことが、

本来の自分を感得してゆくもっとも身近な足掛かりになる、ということでしょう。



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だから人には仕事が与えられるのでしょう。



一休