一休 真実の探求Ⅱ ~引導の神々~

霊性修行、活元修行の日記、気エネルギー、神仏や霊的な事など             

身の程を知る

どうしても忘れてしまいがちですが、

ただ日常を過ごしていられるということの陰には沢山のお蔭様の庇護があり、
その庇護のもとに人は生かされているという実態があります。



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子供のうちは親や周囲の大人に庇護されることで人は育っています。

その後も学校や会社、国家など、様々な集団や組織の後楯と陰でそれらを護っている人達の庇護を受けることで今日の安心な生活、は得られています。



感覚の性(さが)として、人はどうしても嫌な面や悪い面を際立って強く感じるものです。

庇護する側の身勝手や自己の利得に走る面など、不満を感じる部分は浮き立って見えるものですが、
実は不満を感じていない、故に気づいていない、ところに庇護されているものが沢山あるのが実際のところです。

不満や不公平感、不条理感といった強く感じる部分だけを切り取って見ても、その実態、全体像は掴めていないものです。



日本国籍を持って日本人としてこの安心安全な国で暮らしているとこうしたことに気づく機会も少ないですが、
他国を見ると、民族間の争いや差別の強い中、なんの後楯もない身一つになることがどれだけ危険で弱いものか、を思います。
明日の安心もなくその日一日を生きるだけでも一杯な人もいます。




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こうした、
気づいていない庇護されているもの、実は世話をやいて貰っているもの、に一つずつ気づいて行くことが大人になり成熟すること、とも言える気がします。

それは自分の身のほどを知る、ことであり、
身のほどを知って初めて、分をわきまえる姿勢なども生まれてくるものと思います。


大概は自分が庇護する側、世話をやく側に立たされてみて初めてその大変さや有難味に気がつけるもので、
そうなって初めて不満よりも感謝を思える、恩義を覚えるようになるのでしょう。




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生きた人や組織ばかりでなく、
実際には目に見えない様々な存在(神仏、守護霊、先祖霊、その他高次元の存在など)
の庇護を受けて人は生きています。


霊性修行者は感謝の想いで心を満たすこと(すなわち愛で満たすこと)を求められますが、

それはこうして陰で自分を護っている者やその想い、気付かずに与えられている身の回りのあらゆることに「気づくこと」である、とも言えます。

要するに、いろいろなことに有難味が感じられるようになることが魂の成熟への過程なのだろうなと思います。



この与えられている、護られている有難味、を忘れたりいつまでも気付こうとしないままでいたりすると、
その大切ななにかを失ったり、あるいは得られなかったりして苦労をする羽目になるものです。


私自身、この先もう必要以上に無駄な苦労はしたくないと思うが故に、人生を霊性修行としているということもあります。


自分の状態が悪かったり、状況がうまく流れないとどうしても不満ばかりに私も意識が向いてしまいます。修行が足りません。

そんな時ほどに意識的に今有るものに感謝しないといけません。



一休