少年よ大志を抱け
「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は始末に困るものなり。
此の始末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり」
(西郷南洲遺訓より)
西郷隆盛もまた誠に無私の人であった、と言われます。
無私、になればなるほど神仏、高級霊界との繋りは深くなるものです。
二人の偉人もまた、日本神界の強い意を汲んで大業を成したのだろうと思われます。
人を使うにあたり、金でも名誉でも釣ることのできない者は大変使いづらいから始末に困る、わけです。
反対にこれらで釣ることのできる者は使いやすい、ものです。
その者の持つ「欲」に働きかけて動く者、
その者のもつ不安や心配という「怖れ」に働きかけて動く者は、
使う者、利用する者からすれば扱いやすいものです。
此の世では、ある人が何かを必要としたとき、
その対象の必要とされたもの、は同時に存在する(発生する)という原則があります。
求める者が生まれると、同時に与える者が存在するということです。
此の世の人間は、神界からも魔界からも憑依を受ける対象です。
神界と魔界とは直接干渉は出来ませんが、「生きた人間」を介して此の世では干渉が起こっています。
神界からの憑依を多く受ける者は、神の意乗りのある行為を行います。
魔界からの憑依を多く受ける者は、魔の意乗りある行為、魔に魅入られた行為を行います。
神は与える存在ですが、
魔は求める、貪る存在です。
神の与えるものには見返りがありませんが、
魔の与えるものは釣るためのものであり、その先に求め貪る見返りがある取り引きです。
「欲」や「怖れ」へのとらわれが強くなれば、その弱みを求める者への与える者となり、
魔(弱みを求める者)に同通しつけ込まれます。
金も名誉も位も命もいらない、無私に近づけば、魔もつけ入る隙がなくなります。
自分の行為の動機が欲、怖れへのとらわれに基づいていれば、
それは同時に、魔への干渉を自ら求める行為にもなりかねません。
欲も怖れの多くも、私(我)へのとらわれから起こっています。
自分のことしか見えない、自分のことしか考えられない、
自分のことばかりに意識が強く向きすぎればそうなります。
そんな時、自分以外の何か、誰か、の為に、
私(我)を忘れて意識を多く使えば偏った意識も分散します。
「意識」は「意思」の「気」です。
意識を多く使ったことは、意思のエネルギーを注いで育ちます。
欲も不安も心配も、自分が育てています。
善い想いも悪い想いも、育てているのは自分です。
故に、どんな憑依を受けるのかも自己責任です。
大志を抱くこともまた、無私へ繋がるものです。
志、夢、心に大きなことを想い生きる者に、小さな魔の干渉は起こりません。
神は常に、人の行いを観ています。
魔は常に、物陰からつけ入る隙を狙っています。
自分の持つ心の弱みに、支配されることなく生きましょう。
一休