縁切り 魔切り
我々のような修行をする者の世界で「縁切り」「魔切り」などの言葉が出てきます。
こうした縁切り魔切りを祈願として受けている神社仏閣があるようです。
引き受けている霊能関係の人もおそらくいるでしょう。
この類いのものはほとんどが危険と思います。
京都に有名になった縁切りの神社があるそうで写真等少し見たのですが、
もはや危険な呪詛でした。
呪いの札がびっしり張られた岩にトンネルがあってそこを祈願者がくぐるそうですが、
こんなことをすれば祈願者は呪われます。
でもそれも自業自得です、仕方がありません。
呪いのトンネル岩は怨念の塊のようになってます。
ご利益が欲しいと思うほど、多くの祈願者からのこの怨念が貰えます。
己に都合のいいものを求め願う我欲に満ちた邪念の作用を受けます。
貼り付けた札で繋がります。
人の不幸を願っての祈願などはもはや論外としても、
不幸を避けたい、嫌な人と離れたいなど、
その思いはあったとしても、それを何者か(神社仏閣などでも)にお願いする、頼む、などは危険行為になります。
正神がそうしたことに関わるわけはなく、依頼人を更に不幸に招くような存在との縁を生みます。
もしお願いをしてご利益があった、としたら、
それは不幸の始まりです。
そこで願いが叶ってしまったら、忘れた頃に必ず反動が来ます。
振り子の先端を、己の都合の良いところに手繰り寄せたら、当然後で反対に振れます。
自分の身に降ってくることは、良いも悪いもすべてが報いです。
因果応報、自分の行いの報いです。
縁切り、魔切りなどは、通常なにかに頼むのでなく自分の努力で行わなければならないことです。
嫌な人や不幸事と干渉できない処まで自分の意識を高く上げなければだめなのです。
縁が切れますようにと願うほど同等の意識でそれらと引き合います。
自分の蒔いた種で負っている負債を自分で返済しないで他の何か誰かに任せてどうにかしてもらおうなど、普通に考えたらとんでもない話です。
そんなろくでもないことを考える人の所にろくな人は寄りつきません。
形式的な呪詛の場合、負債は倍加するといいます。
先の神社の呪いの札を張っつけてしまったような人は、それこそ本当に繋がってしまった怨念と縁が切れるよう心を入れ替え努力しなければ、その後の人生ずっとつまづかされ続けることになりかねません。冗談では済みません。
えらいことですが、それもまた報いだから仕方がないとしか言えません。
善し悪しの分別のつかない者には、痛い目に遭い苦しい目に遭い、身をもって学ばされるのが人生です。
愚かな過ちは早く気づいて、早めに修正、矯正しないと後で泣きをみます。
一休