亀の歩むが如く
行果を上げるために師匠の行場へ定期的に行って修行をしたいという気持ちが少しずつ出て来ているところです。
修行をするのに最適な霊的環境の整ったところなので、もし行ければ進歩も早まるだろうと思うのだが、そのための状況が整わないのでどうにもまだ難しそうです。
仕事も休まなければならないし、旅費もかかるためそう簡単ではないです。
修行というものに焦り逸り、早く結果を求めることは禁物で、とにかくゆっくりじっくりやりなさいと言われます。
聖者は皆そう言うのだそうで、私の指導者はそう諭され、私は指導者からそう諭されてます。
よく理解はできるのだが、気持ちとしてはなかなかそうも行かずに逸ることや結果が出ずに嘆きたくなったりやけくそな気持ちになることもあります。
正しい法であればこそ、行果はすぐに形には現れてきません。
安易に即物的な結果が出ないのは、正しい法であるが故です。
修行者にも修行者なりの望みや願い事、悩み事や問題ごとの解決など、人だから様々あります。
が、正しい法(修行)によって安易に望んだ結果は出てきません。
正しくない法(邪法)では安易に望んだ結果が出たりします。
魔の類いの力によったり、一時的に結果を引き寄せただけだったりするのが、
愚かな人はそうした目くらましに騙されてしまいます。
以前、縁切り神社のことを書いたがそれなどもそのよい例で、
まっとうとは言えないような願掛けをして、それでご利益があったと喜んでいる人もたぶんいるのでしょうが、そういうのは一時的に結果のみを引き寄せただけで、そうなった分おそらく他の誰かに負わせています。
負わされて難を受けてる人がいます。
自分が消化しなければならなかったカルマを他の誰かに負わせて、その時の難を逃れるなどすれば、倍返しでいつか却ってきます。
借金をしていて、返すときがきた(難が降ってきた)
が、返せば金欠で苦しくなるため消費者金融で借りてそのお金で返した(他の誰かに負わせてその場をしのいだ)
というようなことです。
こうすれば当然利子は高くつくし、最悪最後には取り立て屋がきます。(消化すべき時にしないで他人に負わせたりすればバッドカルマは膨らみます)
カルマというのはエネルギーで言えば正と負のエネルギーバランスを保つ働きの表れで、
因果応報ということの土台になっているエネルギーの法則性です。
前世とか先祖とか民族とか、過去も未来も時空を超えて広く大きな括りで働いているこのエネルギーのバランス均衡の表れが、善業悪業のカルマです。
功徳を積むことでマイナスを相殺、軽減し、善徳貯金を増やす、
意識を高め波動を上げる(エネルギーの底上げをする)ことで悪業が断ち切られるようにする、
と言ったことで確かな結果が然るべき時に訪れるのだ、ということです。
それがまっとうな修行で得られる結果です。
修行とはどこまでも地道に進むしかないものです。
なんでもそうだと思いますが、確かな本物、確かな結果を得るにはカメの如く地道に進むしかないということです。
一休