真言は救世者なり
私に与えられている法縁の特徴は、
加持力を得る、ことが主眼に置かれていることだと感じています。
加持力とは、ざっくり私流に説明すると、
行者の祈りの力による救済力、とでも言うものです。
行者の扱う祈りの方法、この中心的なものが真言(マントラ)を使う方法です。
空海お大師様が開いた真言密教の元になっている大日経では、「真言は救世者なり」とされています。
真言には救済力があります。
今はインドの文化も流行りで入ってきているのでサンスクリット語のマントラもそれほど珍しくもないかと思います。
日本の密教で扱われている真言は中国を経由して入ってきているから訛っていますが、元はサンスクリット語です。
今の日本で仏教というと、ほとんどが葬式仏教でしょう。
病気や人生の諸問題の解決を僧侶に相談して求めるということは少ないだろうと思います。
相談を聞いてくれる僧侶はいても、本当の救済力である「加持力」を持った僧侶はやはり今はもうほとんどいないみたいです。
今の仏教界をよく知る真言密教僧がそう言っているからたぶん間違いないのでしょう。
今では「真言」を掲げている真言宗の僧侶でも、加持力を得るための修法に力を入れている方は少ないという話です。
私はこの加持力の救済力を多少なりとも知っています。
今の段階ですら、その力の本物であることを実感しています。
奇跡を起こす、までの力はまだまだ未知ですが、それでも大いに実感しているものがあります。
だからこそ修してもいます。
本物の強い加持力を得るのに、
自分にはまだだな、というのを今ちょうど感じているところです。
「障道の因縁あり」
これをよく感じているところでして、
要するに前世や家系のバッドカルマの影響を多く受けているうちには事が成就しない。本物の強い加持力は得られない、ということです。
とにかくまだまだなんだなというのを近頃感じさせられているところです。
幸い上の師匠のところにはそうした因縁から解脱するための行法もあります。
真剣に段階を踏んでゆけばそこに至る、それを超えるチャンスはあるかな、というところです。
真言を扱うものには正も邪もあります。
無闇に扱うことは霊的な危険も伴うことがあります。
そういったことも気が向いたらちょいちょい書いていくかもしれません。
一休