苦しみの故に
なぜ自分が密教の行法や活元瞑想をやっているのか。
その一番の理由が、苦しいからなのだ
というのを近頃とにかく味わわされている。
状態のいい時は探求心とか好奇心とか、他の存在のためにもだとか、他の理由と思える時もある。
が、おそらく一番の理由は自分自身が苦しみから逃れるためにやっているのである。
苦しみから抜け出すため(解脱する)という方が言い方は正しいのかもしれないが、
実際の自分の感覚では、半分は逃れるためのようにも感じられる。
心身に抱えているカルマやトラウマの苦しみはごまかしで逃れることができない。
ごまかすことも避けることも出来ないことが実体験で分からされて、
それから、自分で自分を救い出す手立てを必死で追った結果巡ってきた縁がこれらの行法である。
逃げてるんではなくて、逃れられないからやっている。
苦しいからやらざるを得ないのである。
もちろん自分で選んでいることだから、やらされている気持ちはない。が、もし苦しくなければもっと別なことをやっていただろうとも思う。やってみたいこと、突き詰めてみたいことは他にもあったと思う。
近頃苦しいものが出てきているからこんなことを思うのかもしれないが、
それだけ、自分の背負っている業縁に見えずに翻弄され続けているということです。
行に向き合い、現実に向き合い、
斬り込んで、飲み込んで行くしかありません。
あとは野となれ山となれ
一休