一休 真実の探求Ⅱ ~引導の神々~

霊性修行、活元修行の日記、気エネルギー、神仏や霊的な事など             

日々の瞑想の話

心境的にブログを書くような気持ちになれないでいるのだが、せっかく時間があるので少し書きます。

 

気持ち的に苦しいのと、未来や目的、自分自身のことが見えなくなっていて、

どうしたものか?どうするか?

濁った気持ちで過ごしているところです。

 


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私は日々の祈り、マントラでの瞑想を日課としているわけなのだが、その大事にしているのにガヤトリーマントラがあります。

ガヤトリーマントラは有名なので興味のある人には知ってる人もいる思います。

ガヤトリーマントラといったらサティヤサイババというイメージなのですが、私はサティヤサイババを特に信仰などはしていません。

興味も湧いてないのでよく知りもしないのですが写真を観るかぎりでは、自分の大事にしている神仏のエネルギーとは似つかない別物のエネルギーをしてる人、という印象です。

 

 

それはそうと、

ガヤトリー瞑想はもう長く日々365日休むことなく続けています。

どうしたことか、これだけは毎日積み重ねるべきという気がしてそうしてきているが、最近なんとなくその意味が感じられてきたのか分かってきた気がしています。

 

よく、最も功徳があるとか、罪穢れを祓うのにいいとか、本質的な叡智を求めるのに優れているとか言われますが、

その意味するところがうすらぼんやり感じるようになっています。

 


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真言密教ではまず大日如来を拝みます。大日如来は最も根源的、本質的な存在(エネルギー)であり、ありとあらゆる全てのものは大日如来の顕れであるとされます。

当然その他の諸仏も大日如来から派生しているいわば大日如来の一部、なわけです。

善業悪業全てのカルマも大日如来というエネルギーに内包されているようなものと言えます。

 どの仏様を拝むにしても、平行して大日如来は拝むのが形としてはいいというのです。

 

神道での神棚の祀り方を見ると、中心に総産土神である天照大御神を祀っています。その隣に自分に直接縁のある神社を祀っています。

最も根源的な存在の神を中心に据えながら、縁あるものを拝む、というのは形としては似たような形になってる気がします。

中心の伊勢神宮は私的なお願いをするようなところではありません。

 

 

何が言いたいのかというと、

要するに最も根源的なところへ意識を向ける、というのは外しちゃいけないのかなと思っているのです。

最も根源的、本質的なところに意識を向けるという、これを外してしまうと目先のご利益を求めることに力(エネルギー)が傾いてしまう恐れがあるのでは、と言いたいわけです。

そこに意識(エネルギー)を向けるということは、向こうからもエネルギーが来ることを意味します。

現世利益ということも、霊的、人間的成長、進化のためのご利益ということが先に、土台にないと本末転倒になってしまう。

 

正道を歩もうといったときに、このことは転ばぬ先の杖とでもいえるような気がする。

 

 

 今の自分にはガヤトリーマントラがその一つの方法論なのかもしれない、と思うわけです。

 

私はこのガヤトリーマントラもある系譜の伝法を受けてます。ので普通の人が唱えるのと異なり力も大きく動くのですが、

マントラを唱えたら即物的に実感できるご利益が得られる、というようなことはまず無いです。

 

そもそも今狭い視野で見えているだけの狭い世界から解き放たれてゆく為にあるのがマントラの科学なのだから、今欲しいご利益を降らすためにあるのではないのです。

恩寵はあるが辛辣なことも多い。

 

 もちろん人によって効果の顕れは変わるはずです。

 

 
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 一休