因果因縁
昨日の記事に書いたことでもう一つ思ったことがあります。
災害や災難といったことがあると、「神様はいない、神様がいたらこんなことにはならない」と考える人がいますが、
他にも、神や信仰をアレルギーの如く嫌う人もいますが、
そうした人には、実は神というものに理想を押しつけている人も多いのかもしれないという気がしました。
自分の望む、自分の思う理想が、
神によってもたらされるべきだ、神は人を満たすべきなんだ、
とでもいうような、そういう想いが心の底にあるのかなという気がしました。
それはまるで、親に理想を求める子供の姿、
何かあったら親に満たしてもらいたい、親に助けてもらいたいと求める未熟な子供の姿にも似ていると思いました。
親に甘えたのに、思ったように応えてもらえなくてスネている子供の心境にも似ているかなと。
人の身に起こっていることが、まずどこまでも因果因縁によるものであるという、
そのことをよく理解しない限り、身に起こること、そしてすでに起こったこと(人の宿命とか)を受け入れてゆくのは難しいのかもしれない。
もちろん頭で理解しただけで本当に芯から受け入れられるようになるわけじゃないが、
受け入れてゆくための姿勢がそこに出来て行くんじゃないかなあという風に思います。
身に起こることすべて、それは自分、及び自分たちの責任であるという、そこを理解しないと、
では改善のために何をどう変えればいいのかということも、その方向が誤った方向に進みかねないと思う。
因果因縁ということでは柿の木の話がよく出てくる。
種(=因)を蒔いた。
時間をかけて育って実(=果)が成った。
実が成るまでの過程には様々な縁がある。
蒔かれた種が自分だとすると、
生まれた時代、環境、親兄弟など後天的には選べなかったものがある。(宿因、宿縁)
これが蒔かれた場所であり、種の質です。
いい土か悪い土か、日が良くあたるか当たらないか、種そのものが元気だったか、大きかったか小さかったかというところ。
その後は如何に世話をするか、手間をかけ手入れされるかで実りが変わる。
環境が悪くても人が一生懸命世話をしてくれれば良い実りをもたらすこともできる。
ただほっぽっといただけではどうかわからない。枯れてしまうかもしれないし途中で虫に食われてしまうかもしれない。
ここで世話をしてくれる人達や害を為す虫などが生きて出会う縁です。
原因からくる結果を、間接的に複雑に変化させるものです。
因、縁、果は常に複雑に絡み合い成り立ってます。
目に見える縁も、見えない縁も様々なものがあり、どれを選び大切にするか、深めてゆくかなどは自由意思に任されてます。
人の想いや行い、生き方で、出会う縁は変えることのできるもの、ということです。
育て方をよく知っていて上手に育てられる人=良い師に巡り合うことが大事であると、私の修行の世界では言われます。
一休