一休 真実の探求Ⅱ ~引導の神々~

霊性修行、活元瞑想行、気 エネルギー、神のヒーリング

受ける影響 受けざる影響

ある時期から(たしか3年前頃)数字のゾロ目を頻繁に見るようになりました。

今はたいして気にすることもなくなったが、日に何度も見るので以前はその数字の意味するところを気にして調べたりもしていました。

 

調べてみると、一つの数列に対してもどれが正しいのかとわからなくなるほどそれぞれ違った意味、違った解釈を言っているものがあり、知るほどに矛盾してきます。

 

気にしなくなってからのように思いますが、自分なりにどれが正しいのかが分かるようになりました。

強いて言うなら どれか一つが正しいのではなく、その時シンクロした意味のものがたいがい正しいのだと思います。

 


f:id:ikkyuw:20180522020123j:image

 

こういった相反する矛盾する主張、

正しいものは一つではなく幾つもあるということです。

 

例えば、四という数字は少し前の日本では死を意味するという語呂から嫌われていました。

自分が若い時住んでいた古アパートも四号室はありませんでした。今の中高年の年代には四を嫌う傾向が多くの人にあると思います。

 

しかし他の国を見渡すと、四は良い数字としている考えが幾らでもあります。

 

 

集合意識というもの、

人の心の底深くには、多くの人の想念の集まりとも言えるような領域があります。

 

四を縁起の悪い数字と多くの人が意念を抱けば、実際に四に対しその働きを生み出します。

反対に縁起の良い数字と多くの人が思えば、実際にその働きも生まれています。

 

負の領域も、正の領域もそれぞれに生まれているのを、

自分自身がそれらのどの領域とつながるかで受ける影響が決まってきます。

結局は自分自身の意識の決定によります。

 

ただし、人の心の底には通常意思の力ではコントロールできない潜在意識があり、そこが言わば決定権を持っています。

ここで決定されていること(そうだと思い込んでいること)の影響を受けるのです。

 

だから四は縁起が悪いと心の底で思い込んでいる人、それが刷り込まれている人はその影響を受けやすく、

そういった思い込みが何もなければ、気にすることもなければ影響は受けない、ということです。

 


f:id:ikkyuw:20180522020242j:image

 

些細な一例ですが、これは意識の理(ことわり)メカニズムです。

 

カルマ、トラウマの影響を受ける、受けないということも結局はこれと同じことです。

 

仏教は業(カルマ)の教えとも言われます。

 

人は皆カルマの影響を受けています。

潜在意識の奥底、集合意識領域にその働きがあるのを受けています。

意思の力でこの働きを無効にするのは通常不可能です。

 

そこで、仏教では密教という形で、

カルマの影響を受けないという意思決定が可能になるその方法論を伝えています。

もちろんそこまでに至るのは容易ではなくそれなりの修行が必要です。

 

自分の意識を自在に操れるようになるための方法論を示してくれているのです。

 そうなれば生きたままカルマの影響から抜け出ることも可能なようです。

これを解脱とも呼ばれています。

 

 
f:id:ikkyuw:20180522020311j:image

 

一休

 

 

 

 

 

 

 

躁鬱と浮き沈み

躁鬱病では、気分がハイな状態と落ち込むのが繰り返されますが、

人生で大きな浮き沈みを繰り返すような人もこれと似ておるように思います。

 

短期か長期かの違いでエネルギーの法則性としては同じことと思います。

 


f:id:ikkyuw:20180517011634j:image

 

成功して富も名声も得て図に乗っているような人は、後でとんでもない落ち込み方をしています。

 

結婚して幸せいっぱいだと浮かれて節操の無い稚拙な夫婦は、後でたいがい離婚してます。

 

これは一例ですが、

一時だけ調子が上がっていて得られる幸福感というのはやはり脆いものです。

あとで必ず反動が来ます。振り子と同じです。

 

こういう不安定な幸福状態(ハイな状態)は、独りよがりな状態であることが多く、周囲にもあまり良い影響を振り撒くものではないように思います。

 

 

われわれ修行者が求める幸福は、浮き沈みに揺さぶられない安定感のあるものを求めます。

 それにはやはり意識を上げること、と身体を整え丹力を育てること、だと思います。

 

それにより意識のコントロールが自在なものとなって行きます。

 

 

 

一休

 

重い祈り

最近、神社で参拝後に境内で休みながら他の参拝者の様子を観ていて感じました。

 

祈っている、お願い事をしているその内容はわかりませんが、神前で神に向けて送っている念波とその時のエネルギーを感じて思うところがありました。

 

端から様子を観ていると、人それぞれいろいろな念を出してお祈りされてるのがよくわかります。

想いの乗っていない感じのものから、一生懸命必死になってお祈りしてる人まで、いろいろな方が来てますが、

粗っぽい雑な感じの祈りや必死になって祈ってるのなどは、その場の神気に全く溶け込まない様子が窺えました。

神に相手にされてない、と自分には感じられました。

粗っぽい念(エネルギー)や執着の強い重い念や、逆に軽薄な感じのものも、

神社でお祈りしても届かない、ように窺えました。

 
f:id:ikkyuw:20180512221000j:image

 

雑なのや軽薄なのはさておき、一生懸命なのも重い念波になってしまうと神は相手にしてくれない、ように思いました。

 

その点、仏教系の神(仏尊)の方が、重い念にも溶け込む印象があります。

 

神社(神道)の神と寺院(仏教)の神は日本では陰陽☯で対になってますが、

祈りの様子を観察していて働きの違いをなんとなく感じました。

 

 

重い祈りにはその心の裡に苦しみや悲しみがあるものです。

 

喜怒哀楽という感情で言うと、神社では喜と楽に対応し仏尊では怒と哀にも対応しているというか、

つらい気持ちや苦しい心を包んでくれるような、癒してくれるようなのはどちらかといえば仏尊の働きが対応しているような気がしました。

 

 

一休

 

 

 

 

 

何のため

人は、幸せになるために生まれている

人は、幸福を知るために生きている


そう、信じています。



決して人は、カルマの清算のために生きるのではない


そう思っています。



それでも、
カルマもトラウマも、人には降りかかってきます。

しかし、
それに翻弄されたまま終わってしまうのは、正しくないと思っています。


人の運命(さだめ)はそうあるべきではない、と私は思っています。


少くとも、
本気で幸せを求める者は、幸せにならなければいけないと思っています。




f:id:ikkyuw:20180504012719j:plain




私は、この自分の信じたい想いを押し通すために、

これを真実にするために、道を進んでいます。



自分という人間に、求めるものを得させるため、

そして、本気で求める人にも求めたものを得させるために


人は、幸せになるために生きている、
を真実にするために、


どうにかしてそうするために、

この道を進んでいます



f:id:ikkyuw:20180504013328j:plain





一休

霊場巡りの日記

さて、
先日、神奈川県足柄にある大雄山最乗寺という曹洞禅のお寺に初めて行ってきました。

数日前にたまたま画像を観てエネルギーの高いところのようだったので、思い立った勢いで行ってみました。


朝に瞑想行を行い家を出て、着いたのはちょうど昼頃でした。

神社仏閣などはだいたい、なるべく早い時間のほうが清浄な神的エネルギーが強くあるので出来れば早く着きたいのだが、日々の瞑想行もあるので大概早くても今は昼近くになってしまいます。


f:id:ikkyuw:20180428214943j:plain


久しぶりに来た神的なとても高いエネルギー場です。
人も少なくて良かったです。


初めて行く霊場なので特に、神仏や御眷属にご無礼の無きようひたすら礼を尽くして今では参詣します。
はじめの印象はやっぱり大切だろうと思うのです。

こういった場所では観光客としてではなく、今では修行者としてきちんとご挨拶をしなければと思っています。
もしご縁があれば霊的守護をいただくことになるなどもあるかもしれません。
なので行きに写真は撮らず帰り際に少し撮っただけなのでいい写真がありません。


ここは天狗霊とのご縁の深いお寺です。
金剛力士像の代わりのような形で天狗霊の像が守護されています。
凛とした高い波動の霊的結界が働いており背筋も正されます。
本物の霊場という感じです。



後で調べてみたところお祀りされている道了大薩埵とは、
室町時代の曹洞禅僧であり修験の満位でもある妙覚道了さまで、ご入定された後寺の守護と衆生救済を誓って天狗となられ今も守護神として働かれているということです。
こちらの禅寺は開山より600年の歴史ある霊場だそうです。




写真は水神さまをお祀りしているという水場です。

f:id:ikkyuw:20180428221837j:plain


浄化のエネルギーに満ちていたので、この滝の前に佇んでしばらくの間清めのマントラを唱え祓い清めさせて頂きました。

後で調べてみたら清心の滝という名前でした。


f:id:ikkyuw:20180428232830j:plain


写真は無いですが霊泉の涌き出ているのもありペットボトルに汲めます。
とてもおいしい泉水でした。



おそらく話題性も無いのか、人もまばらで空いているのが良かったです。
パワースポットとして変に注目を浴びたりなどはしてほしくないなと思います。

修行道場としてしっかり護られて栄えて行ってほしいと思うところです。



観光地化している今の鎌倉の円覚寺建長寺などにはこんな高いエネルギーは無いですが、
おそらくかつてはこんな神的エネルギーに満ちた霊場だったんだろうなと思い浮かべます。

鎌倉を愛する自分としては、これら由緒あるお寺にも本来の霊場としてのエネルギーと働きが復活してほしく願うものです。



一休

禊祓

野口整体での活元運動、その元は古神道の禊祓(みそぎはらえ)の行法としてあったもの(霊動法とも呼ばれた)が原型とも言われています。
(野口先生が明確にそれが原型と言われてたのか今のところ私は知らない)


自分も活元運動を行として続けてもう八年九年になりますが、
長く行として続けて来て、今では活元運動が禊祓の行であるということがよくわかります。



f:id:ikkyuw:20180424235256j:plain



野口整体では宗教的な表現は表向きあまりしていません。

あくまでも整体、身体を整えるという表現が表向きされていますが、中身としてはやはり禊祓です。


禊祓とは罪、穢れを祓い落とす=カルマ、邪気を落とすこと、です。


身体を整えるということ自体、それは多かれ少なかれ禊祓になります。

例えばトイレで用を足せば(特に詰まっていたようなのが出てゆけば)、心身の力み(不随意緊張)が抜けます。
自然と深い息を吐いて身体も軽くなります。
そのときに重いマイナス想念なども祓い落ちます。
だから清掃をよくしないと特に足下には穢れが溜まります。
決して目に見えている排泄物だけが出てってるわけではないのです。


シャワーや入浴も同様に心身の力みが抜ける時には、目にみえない気の汚れや重い念など祓い落とされてます。

入浴中に今日あった嫌な出来事が浮かんでくるとか、沈んでたものが意識化される(抜けて行こうとする過程)などもあると思います。


心身が弛んで軽くなるような時、スッキリするような時にはそれだけ余分な重いのや見えない汚れが落ちてるわけです。

リラックスする場所は換気や清掃もよくしないといけません。



f:id:ikkyuw:20180425000216j:plain



いつか畳の道場を持てたらいいなあと夢見ます。
活元の出来る場を求めて行かなくても自分のところで出来れば本当にいいなと思います。


もし持てたらしっかりと神をお祀りして(場を祓い清めて頂けたりもする)修行に励めたらなあと思います。



f:id:ikkyuw:20180424235829j:plain




一休

神を労り

伊勢神宮からお宮と御神札が届いたのでお祀りしています。

とてもエネルギーが良く、神宮から直接送ってもらうと随分違うのだなと思いました。



f:id:ikkyuw:20180421030932j:plain



それとその前後から祝詞奏上を少しするようになりました。
神社での参拝時に唱えると、神との感応度が随分上がると実感しているところです。
今はまだわりと短めの天津祝詞だけですが、神に捧げる想いで唱えると悦びの反応のようなものが返ってくるのを感じています。


特に参拝者の少ない寂しい神社ほど捧げたいなと思います。
感謝の想いで捧げて、わずかでも神に元気になってもらいたいと思うものです。

人からお願い事、頼まれ事ばかりをされていては神も疲れるでしょう。


仕事やボランティアでも心から感謝されればそれが活力になって疲れも吹っ飛ぶ、というのはやはりエネルギーの原理でしょう。


経験のある人ならわかるものと思いますが、依頼心の強い人と接しているとこちらのエネルギーを大きく奪われます。

そしてそういう人のためになにかしてあげたい、という気持ちにはならない。

神も同じでしょう。

感謝や労りの気持ちより依頼心が大きくなるようでは良好な関係は築けないだろうなと思います。

そして私的な依頼心が薄れて行くほど高位の神との関係も出来てくるのだろうという気がしています。


f:id:ikkyuw:20180421031006j:plain


いずれお伊勢さまから、来なさいと呼ばれてお参りに行けたらいいなと思います。




一休