一休 真実の探求Ⅱ ~引導の神々~

霊性修行、活元瞑想行、気 エネルギー、神のヒーリング

変化の話

1年前くらいから密教の修行も本格的になって行き、エネルギーも扱う法具も非常に強力なものとなって来ました。

瞑想行等に使う時間も長くなり、仕事は出来る限り減らして修行に時間を多くかけるようにもなっています。



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いつ頃からかよく覚えていませんが、以前と大きく変化したことが一つあります。

以前は人混みに行くと、人や低級霊のマイナスの念波にすぐに悪影響を受けてくたびれてしまっていたのですが、
今はそういうことがなくなりまして、普通に特に問題なく人混みにも居られるようになりました。

かといって好き好んで居たいとは思いませんが、電車での移動に苦労が無くなったので楽です。


邪気の強いエネルギーの悪いところでもそれほどの影響を感じなくなり、

ある意味鈍くなったような感じもします。
エネルギー体が強く整って来るとこのようになることもあるのだなというのを一つ実感しています。




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エネルギー体を語る上ではチャクラというものがよく出てきますが、

このチャクラも肉体同様、「弾力」が重要であると言います。


締まるべき時にグッと締まり、弛むべき時にサッと弛む。

開くべき時にパッと開き、閉じるべき時にフッと閉じる。

赤ン坊のように柔軟で弾力のある状態がいいわけです。


肥田式強健術肥田春充氏は、その筋力を、
締めれば鋼鉄の如く、弛めばバターの如しと言われています。


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低俗な欲求や性欲に溺れているような人の多くは、低い霊界や悪しき霊存在に繋り悪影響を受けています。


そうした低い欲求ばかりが強いのは下位のチャクラが言わば開きっぱなしのようになっており、そこから生命エネルギーが常に漏れ出ているからで、

そうした状態が続けば当然老化も早くなり寿命も縮まります。


閉じて開かず働きの悪いのも良くないですが、
駄々漏れも良くないです。



一休

江ノ島

今日は昼過ぎに瞑想行を終えて、その後江ノ島へ行ってきました。

着いたのは4時頃だったので人も少なく、最初に参拝する辺津宮も人は並んでいませんでした。


江ノ島の神社は辺津宮中津宮~奥津宮と3つありだんだん登って行きます。

一番上の奥津宮は配置的に、海の向こうに見える烏帽子岩かあるいはそのずっと先にある富士山の遥拝殿になっているようにも思えます。


夏場は、夜も食事の店は19時まで営業していて(店の人の話では今日までとのことなので8月中は)
眺めのいい店でコーヒーを飲んで休憩しました。
そこで素晴らしい夕暮れが見れて満足です。


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途中の江の島大師ではこの本を買いました。


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著者の池口恵観大阿闍梨衆生救済の実録ということで、時間のあるとき少しずつ読もうかと思います。
近代に伝わっている真言密教の中身にも触れているようなのでいろいろ参考にもなりそうです。



今日は一日ずっと強めの風が吹いてました。
いい風でしたが、荒々しい猛々しいというか、そんな雰囲気がありその分浄化も強く感じました。

龍神は風や天候を操ると言うから、今日はなにやらよく働かれていたのでしょうか。


三時間弱の滞在でしたが、
江ノ島はエネルギーが非常に高く日頃の行では得られないパワーもずいぶん満たされた感じがします。
浄化と充電のいい一日でした。


もう肌寒く、すっかり秋の夜ですね。




一休

夏の記録

この暑い夏、毎日数時間の瞑想三昧の日々です。
少なくとも9月の初めまでは今の行をみっちり継続しなければならないところです。

こう暑いと積極的な動きもあまりとれないので、瞑想修行に専念するにはちょうどいいと言えばちょうどいい時期とも言えます。




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人生には動きのいい時期とそうでない時期とがやはりあるもので、

年齢を重ねて行くにつれてだんだんとそういったこともよく実感出来てきます。


「機」


なにかしら行動を起こすに当たっては、タイミングというものがあります。


風も吹いてこないのに一生懸命人力で船を漕いでもたいして進みはしないもので、

いい風が吹いて来るまでじっくり待って、
さあ今だというところで帆を張って一気に風に乗って進めるというものです。


この待ってる間に、如何に地道に未来の準備が出来るかというのは重要です。


動かざること山の如しで、この夏は瞑想三昧と、合間に読書と、
地道な修行勉強です。



労多くして功少なしにならぬよう、

自分自身をよく感じ、目に見えない流れを感じ読み取り、

そして心に従い、
今為すべきことを判断します。



一休

損害もカルマ

新たな行の最中です。


先月は初めて車で大きなもらい事故に遇うという業出しもありました。

周囲の人に話すと、
それは災難だったなとか、相手や保険屋にもっと文句言った方がいいとかいう話にもなるのですが、

霊性修行者としてはこうして降ってきた損害も歓迎すべき出来事、バッドカルマの取り除きです。
実際そうして取り除きとしてバッと起こってくれると、心がすっきりするという不思議な感覚になります。


この様なとき普通ならだいたい、苛立ってムシャクシャしたり気分が凹んだりするものと思います。
損失をどうにか減らそうとするなんてことも、我々の立場から見ればもったいないことです。

目の前に見えてるお金などの損失が減って満足したとしても、
人を言い負かしてやっつけて気分がすっきりしたとしても、

それでは目に見えない天のカルマのマイナスポイントをまた足してしまうことになります。
それではもったいない。



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この道に入って始の間は、却って損したり馬鹿みたりするぞ。
それはめぐり取って戴いてゐるのぞ。それがすめば苦しくても何処かに光見出すぞ。おかげのはじめ。
次に自信ついて来るぞ。胴がすわって来るぞ。心が勇んで来たら、おかげ大きく光り出したのぢゃ。


悪く言われるとメグリ取ってもらえるぞ。悪く言うとメグリつくるのぢゃ。


悪いこと通して善くなる仕組、よく心得よ。


めぐりあるだけ神がうらめしくなるぞ。めぐりなくなれば神が有難いのぢゃ。


この道に入ると損をしたり、病気になったり、怪我をすることがよくあるなれど、それは 大難を小難にし、又めぐりが一時に出て来て、その借銭済しをさせられてゐるのぢゃ。 
借りたものは返さねばならん道理ぢゃ。損もよい、病気もよいぞと申してあろうが。

<日月神示より>




本当の霊性修行者の考えや行為というのは、多くの人の目にはバカに映るかもしれない。奇異に映るかもしれない。


この世の原理、真理を熟知した徳のある人物には度々見られることです。




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一休

今日の日記

なんとなく一年前頃に書いた自分のブログを読み返していました。

そう言えばこれを書いてた頃は今よりもずっと気楽に過ごしてたんだなと、当時を思い返していました。



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早く次のステージへと身の回りの環境、状況を進めなければと思うようになってきた頃から、反対に足を引っ張られる感じも増えてます。
周囲の関わる人や状況の、低く重い波動がしがみついてきます。

もう一つ高い波動域へ進もうとしている今、例えればビルの一つ上の階へ進もうとしているところです。

そうなれば関わる人も、周囲の環境もたぶん大きく変わることになりそうです。



そこへ今の階にいる人やなんかが、上にあがるな、行ってしまうなとばかりにしがみついてきます。

自分の波動が落ちてくると、振り払えずに引き戻されて乱されたりするが、そんな時でも一つずつしっかりと波動を上げることに努めるしかありません。


階段を一歩ずつ昇ったり降りたりしながら、少しずつ上の階へ近づいてます。



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やはり一段上の波動域にシフトアップするような時には、引き戻す力もずいぶんと働いてくるもので、
それは当然不快なものです。


もう今の状況や関わっている人の多くが波動が低く重く感じられてきており、
今の環境もだいぶ居心地の悪いものになってきているところです。




一休

伝法の記録

半年間、みっちり行ってきた龍神の行がとりあえず終了し、本日新しい伝法を受けてきました。

半年間休まないで集中を継続するのは大変だったので、ここで少し一息入れてから新たな行をやって行こうかと思っているところです。



これからの身の振り方をどうすべきかと日々考えあぐねているが、
今日指導者と話をしながら次に進むべき方向や必要な環境などが少し具体的に見えてきました。
上手いこと進んで行けるかはわからないが、考えが一歩進んだ一日にもなりました。

相談できる先輩がいるのは有り難いことです。


困ったときは、

相談しよう、そうしよう


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一休

生きることの意味

人が生きることの目的は何なのか?
の問いに対して野口晴哉先生は、

生きることに目的などない、あるとすればそれは生きることそのものだ。

ということを仰っています。


ただ生きることそのものが目的なら、どんな風に生きたっていいだろうと思うのですが、そうではない。

野口整体ではその生き方に、命に「勢い」がある、ことを最も重要とする。

ただなんとなく生きている命には勢いが生まれない。
どんな生命もその精一杯生きるところには勢いが生ずる。


例えばスピリチュアリズムでは、
人がこの世で生きることの目的は沢山の感動を味わうためだとしている。


なぜ勢いがあるのが大事かといえば、
やっぱりこの感動を大きく深く味わえるからだと思う。




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ではその勢いを生むには何が要るのかといえば、
その人の心が躍動する何かだろう。

心の躍動するそこを手繰ればその先には果たしたい目的があり、その過程と果たすところに喜怒哀楽の感動がある。


生きることそのものが目的なのだと悟りきるまでは、
その都度果たすべき目的を必要としているのが人なのだろう。


せっかく命を与えられてるのだから、
もっともっと生きることに命を懸けてみたい。
この地球という現世というテーマパークをもっと遊び尽くしてみたい、死んでしまえばそれまでです。


浮生は夢の如し



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一休