死に対するカルマ
「神様もなにもあったもんじゃない。こういうのを見ると神様はやっぱりいないんだなと思う。」
西日本の災害の報道を仕事仲間と見ていて、仲間がそう言っているのを聞いて思いました。
多くの人は、人が死ぬことを良くないことと捉えている。
死は怖いことであり、悲しいことであり、忌むべきものであるという、そういうことが我々の心の奥底には刻まれている。
これ自体も我々人類が時間をかけて作り上げてきたカルマ、恐れという名の負の遺産である。
この恐れというネガティブなエネルギーを自ら膨らましてそれに取り込まれていく以前の、それ以前の古代人種は死は怖いとか悲しいとかいうものではなかったといいます。
ある段階まで霊性の上がっている人はこのカルマ(ネガティブな重い想念領域)から抜け出ているから人の死そのものに特段恐れも悲しみもない。野口先生もそういう方だったと思います。
そういう人は当然この世への意識の束縛も薄く、この世だけがすべて、という感覚もないであろう。
普通の人にはこの世が現実で、死んだ後のあの世は未知の夢の世界であるが、
ある段階まで行けばそれは逆で、あの世の方がむしろ現実でこの世の方が夢の世界、一本の映画のようなものであることを実感できるのかもしれない。
ブッダも行ったと伝えられるマハーサマーディという高度な修行法があるが、
この世、自分の肉体に留まり束縛されている通常の意識をその束縛から解き放ち、あの世の領域を旅して来るというものである。要するに高度な幽体離脱である。
自我という意識をまとってこの世に私として存在しているのが通常であるが、自我の意識を1%肉体に残して深い領域へ潜る。ダイバーが海の中へ潜って海中を旅するようなものであるという。
海上(この世)から海中(あの世)は普通は見ることが出来ないが、ダイビングをしてあの世の実相を見てくる。
そうして見てきたあの世の実相、あの世からみたこの世の実相、それをブッダは伝えているのであろう。
仏教は思想でも哲学でもない、と言われる所以がこのことに一つあると思う。
私も一応このマハーサマーディを目指して行を進めている形になっている。
自分では目指しているつもりはないけれど、順当に進めばいずれ目標にもなってくるかもしれない。
マハーサマーディは死の一歩手前の体験であるというから、もしこれを行い死後の世界を知れば、自分や身近な人の死にも恐れも悲しみも、マイナスな想いはなにも無くなるのかもしれない。
(マハーサマーディには段階があり、ブッダが行ったのは最も高度なもので深層部まで潜っているようです。)
一休