一休 真実の探求Ⅱ ~引導の神々~

霊性修行、活元修行の日記、気エネルギー、神仏や霊的な事など             

いじめとカルマ

今朝のテレビではいじめ後遺症について放送されていました。

大変な苦しみの中で生きている様子も紹介されておりましたが、
とても根深いカルマを感じました。


こういった根の深い心の問題こそ、自分の行うヒーリングの扱う領域と言えます。


一般常識的な多くの認識が、

心の病、心の問題➡精神科の病院へ

という選択になっていると思いますが自分が思うところとして、

多くの今の精神科の病院には、こういった心の問題を根本から解決し、消滅に向かわせる力も技術も持っていないと思います。


目に見えない心を対象にしているのだから、扱っているのは目に見えない氣、エネルギーの領域なのです。

もっと常識的にも一般的にも、氣エネルギーを扱うヒーラーの存在が認知されればなと思います。



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私は、こうした根の深いカルマを背負って生きている人が、そこから脱け出して行くのを手助けするために修行に勤しむことになっているのだろうと思うのです。
より深いカルマ、地獄から這い上がるのを引っ張りあげるような力、
私が身につけて行っているヒーリング力は、そういった類いの力なのです。



今の時代、今のこのタイミングでは、
これまでだったら何回も生まれ変わらなければ消化できないようなカルマも、
たった一回の人生で消化してしまうことが可能だと言われます。

何百年、何千年分をたった一度の人生でできてしまう、
それぐらい、ポジティブなエネルギーが強力に働く時代なのです。


そんな時代だからこそ、
より困難な課題を沢山抱えて、それを消化すべく今のこのタイミングに生まれ来ている人というのも多くいるはずなのです。




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今暗闇の中に埋もれている人も、
既に光を得て力を増している人も、

同じ時代に生まれ合わせ、同じ課題に取り組んでいる同志であります。


薄暗い世界を、光輝く世界に変えるというミッションを皆で共同作業で行っているのです。
何かしらその一部を自分の心の闇という形で担っているのです。


光を導く側の人があり、それを受け取る側の人があり、
双方が合致して一つ、

どちらもより光るために必要なお互い様なのであり、

どちらに上下も優劣も、本質的にはないのであります。



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自己も、他者も、世界も、すべては同じ一つである、

自他一如、なのであります。



一休

修行者の数珠

先日新しい法具を拝受したところで、
昨日の行から使い始めました。



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私の行う瞑想行法では通常、ジャパマーラーと呼ばれる数珠を使用しております。

宗派や法の系列によって様々あると思いますが、インドやアジアのヒンドゥー仏教圏ではよく使用されるものです。


この数珠では菩提樹の実がよく使われていて、クルミのような実にいくつかの面があります。
水晶や水のようにエネルギーを記憶する性質に優れていることから、神聖な実として昔から修行者はこれを数珠にして使っているのです。

面の数とその意味や効果についてはいろいろと言われているものがあるが、
今回自分が拝受したものは6面の数珠であり、われわれ行者としてはシッディー(法力)を得るのに必要なものということです。



そして何より重要なのが、

実際に入っているエネルギーの質と強さであります。


今まで使っていたものは、ヒマラヤ及びインドネシアの老聖者にエネルギーを入れてもらっているものであり、
どちらも表には決して出ない無名の方だが、凄まじいエネルギーを宿してる方々です。

なのでそれでも十分なエネルギーの入ったものではあったのだが、
自分が今行っている段階、そしてこれから人様のために法を扱ってゆくことを考えると、これではもう足りない力不足になってきていたところでした。



そこで、相談をしたところ巡ってくることになったのが今回のもので、

これは師匠が年月をかけて特別に熟成させていたもので、いろいろと特殊なエネルギーも染み込んでおります。
サイズも大きくて重く、もはや素人が手にできるようなレベルのものではなくものすごいエネルギーです。


自分と同じような数珠を使っている修行者は相当数いるだろうが、
こんなものを手にできる人はそうはいないだろうと思うもので、

行者としては自分は本当に恵まれているなと、感謝しているのと同時に使命も感じています。



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修行者にとっての数珠は、武士の刀とも言えるようなものであります。


使い込むことでエネルギーも増して、切れ味鋭くなってゆきます。




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今までは木刀で修練していたのが、ついに真剣を手にした感じです。
それも名匠の業物という感じであります。


やっと持つことを許された、その段階にきたのだろう。


初めて手にした真剣は、心にも重くのし掛かかり扱いづらいところであるが、

どうにか少しでも早く、自分の得物として使いこなせるよう行じてゆく所存です。



一休

神々の世界、人々の世界

優れた僧や、聖者、賢者と言われるような人の中に、即身成仏される人がいます。
即身成仏と言わずとも中身としては同じ、あるいは似たようなものと言える亡くなり方をしている方がいるものです。

だいたいそういう方というのは自分の死期を覚っていて、
周囲の近い人にはそれを漏らしたり伝えたりしていた、という話がよくあります。




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宗教や地域によっては、このような方の死を祝うところもあると言います。

肉体という重い殻を脱ぎ捨てて、時空間の制約のない形へと存在の在り方が変わるので、
その方がより活躍できるという面があるわけです。


非物質界に住まう神仏や様々な高次元の存在というのは、
重い肉体を持った我々には及ばないような力や働きを持てるものであり、

だからこそできる人々の救済、幸福の手伝いというのがあるものです。



しかし、我々が主体的に捉えてるこの物質界においては重い肉体を持った我々人間の方が力を持っているという一面もあり、

肉体があるからこそできる人の幸福の手伝い、そして神仏や高次元存在への手伝いというものもあり、
そちらの面も一方で大事になるのであります。




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神は人の敬いによりて威を増し、人は神の徳によりて運を添う


これは神道に伝わる教えの言葉です。


私は神は敬うべきと思っておりますが、
神と人とは共存、共生しており、

ある意味、持ちつ持たれつの関係と言える面もある、とも今は思っております。



なんにしても、

神々や精霊を、そしてその宿る大自然を大切にし敬うことでこそ、
人はそれらに護られて、本当の心の豊かさ、幸福を享受することが可能になってゆくというものなのであろう。




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最近、神道から学ぶものが多いです。

この狭い国でセカセカと時間に追われ働いてばかりの今の日本人は、スケールが小さくて本当につまらなくなってますが、

昔の日本にはもっと雄大なものがあったんだなあと思うこの頃であります。



一休

霊的地固め

先日鑑定結果のでた両親の産土神社及び鎮守神社を両親に伝えるために実家へ帰りました。

なぜ今回両親のを鑑定してもらうようにとのメッセージが降りてきたのか、実家に帰ってみてわかった気がしているところです。



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一年ぶりくらいに帰ったのですが、いつの間にか、
かつて自分が住んでいた頃残した神棚をとても大事に管理していて、毎日神様に挨拶しているんだと言っておりました。


おそらく両親の産土様が、両親に存在を知らせるべく計らったようです。

余り期待はしてなかったのだが、両親に鑑定結果を伝えると思いの外信じてくれたようで、挨拶に行って御札ももらってくるつもりの様子でした。

父親は古い人なので古い観念に縛られている人であり、とりわけ霊的なことには疑り深く、
本人の考える神、信仰に対する頑なな思想にはまらないものを頑として受け入れないという面が強くあるのですが、伝えてみてよかった。
言ってみるもんだなあと思っているところです。




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これで一つ安心して先へ進んで行けるというものです。

自分を担当している、自分の親的存在である産土神鎮守神という存在をまず大事にすること。
そしてその上で他の神仏を大事にして行くのだという、

そういう順序がスジの通った、神仏界では大切な原則なのだそうです。

人間社会もそれは同じと思うので、よくわかります。



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そして、近しい親、家族、ご先祖をまず大事にすること。
それが神仏界で重んじられることであり、霊的にもカルマという面でも大切な順序なようです。

隣人を愛すということはもちろん大切と思うが、
自分のようにこればかり大事にして、家族、親族一族という繋りをなおざりにしていると、運命の拓かれ方にも効率が悪いようです。

まず近しいところを大事にし、そこから放射線状に拡げてゆくという形が望ましい。




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カルマを共有している要素の大きい近しい存在を大切にし、その人たちの運命が拓けるようにする。
まずは一番近しい神仏を尊び労る。

それが霊的な面での地固め、基礎作りに大切な順序なようです。




一休

時間も加速

そろそろ1月も終わりです。
やけに早く感じています。

次元上昇に伴い時間の進みもどんどん早くなっているのでしょう。

数年前と時間の感覚が違うのは、歳をとったからというばかりではないだろう。
急速に速度が上がっているように感じております。



次元が上昇するほどに速度は実際に速まるわけなので、

自分が低い意識で低い波動で生きていれば、本当にあっという間に時間だけ過ぎて行ってしまうでしょう。


しかし、自分自身が高い意識で高い波動で生きればよりいっそう密度の濃い、内容の濃い時間を過ごせるということでもあるわけだから、

断然そのように生きるべきところです。




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のんびりはしてられません。


こんなこと、去年まではそこまで強く思うことはなかったものです。
が、
今年は本当に何かが大きく違う。


私だけでなく、世界が、全てがそのように変わっているはずと思うところです。


一休

一人ぼっち

一人ぼっちの語源は、独り法師、あるいは独り坊主だそうです。


どの宗派、寺にも属さずに独りで山に籠ったり行脚したりしているような僧のことで、軽蔑したニュアンスの言葉だったようです。

破門されたり、集団に馴染めずのけ者にされたような人に対して使われていたようですが、
自分の考えではそういう人ばかりでなく進んで独りになっていた僧も多くいたのではないか、と想像します。



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周囲よりも真理を悟ってるような人は、形ばかりの俗っ気の多い真理に暗い坊主たちとは波長が合うわけがないし、

真理を探求してゆく道は、やはりどこまでも孤独な道であると私は感じ思っているのです。

あくまでも心の在りかたとして、ということなので周囲に人がいたらいけないということではないと思うが、
実際に独りになっている方が、周囲から邪魔されたり足を引っ張られたりということもなく、余分な争いやいざこざを遠ざけて求めるものを追求して行けると思うのです。


村八分という言葉があるように、
日本は村社会の集団意識、派閥意識が強く、お寺の中も然りだっただろう。

宗派間の争いもたえずあったであろうし、中は俗社会と同じ縦社会の権力争いもたくさんあっただろう、
結局多くの寺の内部は娑婆となにも変わらなかったのではないかと思えます。



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昔からそうだが、基本的に私は組織や集団のなかで生きるのが嫌いです。
馴れ合うのも嫌いです。

この独法師という言葉が、自分にはしっくりきます。



一休

一瞬、一点の変化

心身の変化というものは、一瞬で起こるものであります。

変化するのに必要なのは、ピンポイントの一点であり、一瞬です。



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一般に普及して流行っているヨガなどの運動では全体をあいまいに行うものであるので、心身にかかる負荷は少ないためやり過ぎなければ身体を壊すようなことにはならない。

しかし、本当に心が動き心が変わるために必要な当たるべき一点に当たらないから、変化もあいまいなものになる。

目に見える外側は柔軟になっても、目に見えない裡の変化は少ない。



詰り、滞りが抜けて行くのに重要なのは、心と身体を分離してしまっているその一点です。
そして抜ける時は一瞬であり、それ以上の負荷がかかっても足りなくてもいけない。



身体は、動きやすいところから動くという性質があるため、
あいまいな動作、意識的な動作では本当に動きにくくなっているところ、裡であり深部でありに動きが到らない。


動かなくなっているところとは心の動きの詰まりであり、
肝心なそこが動きだして来なければ、深い心、無意識が拓かれてこない。

表面的な外側がよく動いても、裡なる部分が動いてこなければ健康維持、リラクゼーション以上の行果がなかなか得られない。



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霊性修行で大事になるのは、
心が深く動いてくることであり、それが神性、仏性を引き出してくることであります。

心が深く動いてくるということは、意識が大きく拡がるということでもあり、
それは限定される要素が減って行くことです。


自分のため、が、

身近の人のため、になり、

より多くの人のため、になり、

生きとし生けるすべてのもののため、になる。


簡単に言えばそういうことでしょう。




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まずは自分のためです。

心が深まるには、滞りを無くし満たさなければならない。

自分の心が満ちて深まった分だけ、本当の意味で人のために生きられるようになるのであります。



一休