今日の雑話
今の学校では相変わらず「体育座り」をしているのでしょうか。
事実かはわかりませんが先日、この体育座りも戦後GHQが採った日本弱体化計画の一部、という内容の記事を読みました。
体育座りが、というより今の体育そのものに弱体化の意図が盛り込まれているとは思いますが、
この体育座りが奴隷や囚人にさせる座り方だった、というのはこれまでずっと知りませんでした。
野口整体、瞑想行を学んできた視点から見ると、
確かにこの座り方を学校教育で標準化していることは良くないかも、と思えます。
この座り方は自分を主張できる座り方ではありません。
腰腹を使うのとも真逆です。
身体特性によっては脱力を促せる、休まる座り方にはなり得ますが、
そうでなければ意思、主張を、
抑える、挫く、封じる、ような体勢です。
元気がなくなったり、項垂れたりしたときの体勢です。
確かに奴隷や囚人には相応しいかもしれない。
学校であまり多用されるべき座り方ではないかもしれない。
教育は洗脳、とも言えるくらい、
当人の気づかぬ人格形成に大きく影響しているものです。
そうして作られた人格が社会を創って行くわけだから、
権力者は当然計画的な意図をここに多分に仕込んで、望む社会を作り上げようと画策します。
教育に限らず当然メディアもこうした一部の権力者の意図による仕掛けだらけなので、必要以上に触れることを私は避けます。
私は10代後半頃から、
自分の意思、自分の考えと思っていることが、
実は大人や社会に意図的に作られたものなのではないか?
これは本当に自分の考える想いなのか?
という疑問、疑いを抱くようになり、
それから主に独学で歴史や精神世界、宗教など学んで、自分の知らない自分の中を掘り探って行くようになりました。
ブログの題名にしている、真実の探求、はこの頃から始まっていると言える気がします。
今主にメディアの力によって表面に映っている社会の様相は、本当の世の中を見せているものでは全くもってありません。ただの一面です。
大人になって実際に社会を見渡してくれば誰しもがある程度気づくわけだが、
それでも表面に映っている標準化されたものに人は振り回されてしまうのだから困ったものです。
これから数十年の間に、世界は大変革をしてゆくと思います。
大洗濯により、淘汰されてしまう人も多く出るだろう。
日本の憲法も教育も、大きく変革して行かなければならないものと私は思っています。
一休