一休 真実の探求Ⅱ ~引導の神々~

霊性修行、活元修行の日記、気エネルギー、神仏や霊的な事など             

今日の日記

今やもう数少ない野口晴哉先生の直弟子であった整体指導者が今月70歳で亡くなりました。

私の活元瞑想の指導者の師匠でした。

 

死因は大腸がんだったそうで、整体指導者としては長生きされた方です。野口整体の指導者は愉気野口整体流の手当て)を行うのでどうしても受け手の邪気を多くもらうのです。

 


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整体指導者に限らず、人の身体に触れる仕事、特に治療家の方は早死にする方が多いのだそうです。

整体指導や治療を受けにくる人というのは何らかの不調を抱えて来ることが多いわけだから当然と言えば当然です。

元気いっぱいの人に触れるのではないからやはりもらう邪気も多くなると思います。

 

ベテランのマッサージ師の方など独特の強いマイナス波動の方を見かけることもありますが、邪気の蓄積によるところが大きいのだと思います。

 

 人に触れると気は交流します(触れなくても交流するが)。

良い気も邪気も、お互いに流入流出し合うものがあります。

マイナス波動の強い治療家に身を預けると、気付かなくても逆に邪気をもらっていることもたぶん少なくないです。

 その場合もある程度敏感な身体なら、身体が抵抗反応を示すと思います。

嫌だなとか不快だなと受けて感じるような人からは受けない方が身のためです。身体の声、身体の訴えをよく聞いて大事にすべきと思います。

 

人と人が触れあえば、良いも悪いもある程度は交流し共有し合うことになるものです。

 


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 若い頃の野口先生

 

 

野口整体は野口先生の独特の思想が色濃いため、たぶんそのために邪気というものについてはあまり言われていません。

 「愉気」ということを大事にして「邪気」はあまり意識しません。

 

なのでどうしても邪気を蓄積させて早死にしてしまうのだと思いますが、それもまた野口整体らしい、と自分には思えます。

全生する(全力で生ききる)という思想には寿命の早い遅いは関係ないし、

 大事なのは生きることのその密度、濃さのようなもので、

命を使い切ったかという、

果たしたい想いに命を賭けて応えているかというような、

目一杯やり尽くす、生き尽くすべし、

というようなのが野口整体の思想と思うので、身を削って整体指導をして早死に、というのも悪くないのかもしれない。

 

私は野口整体のこういう力強さが好きで共鳴するものがあります。

野口先生は整体ということを通して人のあるべき生き方を指導されています。

 

野口先生の伝えた生き方はとても力強いもので、直接指導を受けてない私などにも大変大きな影響を与えています。

 

 

一休

 

 

 

 

 

 

 

死後の安否

新たに受けた伝法の行と合わせて、龍神のエネルギーで浄化を進めています。

 

御神体があると流れるエネルギーがだいぶ大きくなります。瞑想行をする上ではあると無いとではずいぶん違います。

 

 せっかくなのでしばらく続けるつもりです。

 


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人は亡くなるとき、死に際のその心の状態によって行く世界が決まるといいます。

 

この世に未練のある霊や死んだことに気づかないでいる霊などは、成仏出来ずこの世とあの世の狭間に留まってしまう浮遊霊となっていると言います。

 

死んで魂が抜ければ肉体はただの物と化しますが、

心の状態の良かった人の遺体はきれいで死後硬直がすぐには起こらず体温(熱エネルギー)が保たれるのだそうで、

反対にきちんと成仏出来ずにいる人の遺体はすぐに冷えて死後硬直が早いのだそうです。

 

ずいぶん昔の記憶だが、90何歳かで大往生した私のお祖母ちゃんはたしか2、3日きれいな状態だったと思います。

 先代のダライ・ラマが亡くなった時には一週間か2週間遺体が温かいままだったというのも、たしかダライ・ラマの著書に書かれていました。

 

聖者、聖人と言われるようなより高い境地に逝かれた方の遺体はそのように長く熱を留めるとのことで、中にはずっと温かいまま存在し続けている遺体もあるのだそうです。

転生せずにエネルギー体で残存し続けるような人にはそうしたことがあるのかもしれないと思います。

 

お大師様(空海)のお墓や(正確にはお墓とは言わないが)、インドの聖者のお墓にも強力な生きたエネルギースポットになっているところがあります。

遺体を直に見ることはできませんが、実際どうなっているのかなとちょっと興味があります。

 死んでなおそのエネルギーが保たれたり、増したりもしているということです。

 

生きている間の依り代であった肉体に、エネルギー体になってからも繋がり続けているのでしょうか。

 
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遺体の様子を見ただけでも無事に成仏できているかの判断材料にはなりそうです。

 

自分でご先祖の供養(親類も含め)をするようになってから分かったことですが、

成仏してなかった親戚の人は、思い返すと葬式前にはもう誰かわからない顔になってた人もいました。

 

 

自分が死ぬときには、周囲が驚くくらいの死体にならないと修行者としては失格かもしれません。

 

 

一休

 

 

 

 

 

 

 

覗けば覗かれる

今日近所のお寺に立ち寄り参詣しました。

敷地内は特に結界などはない普通の感じのところです。

 

久しぶりに参って良かったなと思ったのですが、帰りに変なのと出会ってしまいました。

 

観音様の像や、お地蔵様とかよく分からない人の像など、石像があちこちにあるのですがどれも変な者は入ってない様子です。(悪質ではない何かは入ってる様子のもある)

いろんなのがあるので見学と思って見ていたら、裏のお墓に一番近いところに「水子地蔵」の石像があり、これだけは立派に造られており丁寧に祭られていました。

 

この水子地蔵に気持ち悪いのが入っていてすぐ近くで目を合わせてしまいました。

あちらが見てくるので、見なければいいものを気になって何度か見返してしまいました。

 

今も少し頭や身体が重いです。こんなのは久しぶりです。

成仏されずに悪霊化する水子は相当多いというからそういうのがいたのかもしれない。

 

そしてその後家に帰ると、先祖霊を祀る祭壇に小バエ(邪気)がたかっていました。

(普段は寄りつかない)

 

 

修行で教わったことですが、

こちらが相手を見れば、相手もまたこちらを見ているのだ、と言います。

こちらが神を見れば、神もまたこちらを見ているというのです。

 


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目に見えない世界はエネルギー(波動=微細な振動)であり同通性があります。

 

こちらが相手を見る、見ようとする、ということは、

相手も同じだけこちらを見てくることなのです。

こちらが覗くとき、相手もまた等しくこちらを覗いているのです。

 

人間同士では気づかないこともありますが、背後には伝わって、見れば見られているでしょう。

見られているとつい反応してしまいます。

注意すべきところは注意しないといけません。

 

 

一休

 

伝法の記録

本日新たな伝法を受けてきました。

今回は私の指導者やその師匠達、修行のソウルグループと深く繋がってゆくための行ということです。

また地道に行じて行きます。

 

 
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先日、指導者から変わった物をもらいました。

最近インドへ修行に行っていて、そこで入手してきたものでした。

 

ナーガーラージャ(ヒマラヤの龍王)と呼ばれる現地の龍神、それを祀る由緒ある寺院より入手してきたもので、

歴史あるこの寺院の最高司祭により開眼入魂された龍神御神体ということです。

 


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巨大な松ぼっくり、これがそれです。

その寺院のある山は松の木だらけなのだそうで、そこで拾った物に龍神のエネルギーを容れてもらったということです。

松の木の幹はまるで龍の鱗のようで、松と龍神とはなにか関わりがあるのかもしれないと指導者は言っておりました。

もしそうだとすると、松ぼっくりは「龍の卵🐣」のようにも見える、そんな気がしてきます。

 

去年の今頃はひたすらこの龍神の行をやっていました。

こうして図らずもその御神体が手元に来るということは、ご縁が深まっていることの表れだと思います。

さすがにとても強いエネルギーが入ってます。


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 感謝し、先へ進みます。

 運命を超えて生きるため。

 

 

 

一休

受ける影響 受けざる影響

ある時期から(たしか3年前頃)数字のゾロ目を頻繁に見るようになりました。

今はたいして気にすることもなくなったが、日に何度も見るので以前はその数字の意味するところを気にして調べたりもしていました。

 

調べてみると、一つの数列に対してもどれが正しいのかとわからなくなるほどそれぞれ違った意味、違った解釈を言っているものがあり、知るほどに矛盾してきます。

 

気にしなくなってからのように思いますが、自分なりにどれが正しいのかが分かるようになりました。

強いて言うなら どれか一つが正しいのではなく、その時シンクロした意味のものがたいがい正しいのだと思います。

 


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こういった相反する矛盾する主張、

正しいものは一つではなく幾つもあるということです。

 

例えば、四という数字は少し前の日本では死を意味するという語呂から嫌われていました。

自分が若い時住んでいた古アパートも四号室はありませんでした。今の中高年の年代には四を嫌う傾向が多くの人にあると思います。

 

しかし他の国を見渡すと、四は良い数字としている考えが幾らでもあります。

 

 

集合意識というもの、

人の心の底深くには、多くの人の想念の集まりとも言えるような領域があります。

 

四を縁起の悪い数字と多くの人が意念を抱けば、実際に四に対しその働きを生み出します。

反対に縁起の良い数字と多くの人が思えば、実際にその働きも生まれています。

 

負の領域も、正の領域もそれぞれに生まれているのを、

自分自身がそれらのどの領域とつながるかで受ける影響が決まってきます。

結局は自分自身の意識の決定によります。

 

ただし、人の心の底には通常意思の力ではコントロールできない潜在意識があり、そこが言わば決定権を持っています。

ここで決定されていること(そうだと思い込んでいること)の影響を受けるのです。

 

だから四は縁起が悪いと心の底で思い込んでいる人、それが刷り込まれている人はその影響を受けやすく、

そういった思い込みが何もなければ、気にすることもなければ影響は受けない、ということです。

 


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些細な一例ですが、これは意識の理(ことわり)メカニズムです。

 

カルマ、トラウマの影響を受ける、受けないということも結局はこれと同じことです。

 

仏教は業(カルマ)の教えとも言われます。

 

人は皆カルマの影響を受けています。

潜在意識の奥底、集合意識領域にその働きがあるのを受けています。

意思の力でこの働きを無効にするのは通常不可能です。

 

そこで、仏教では密教という形で、

カルマの影響を受けないという意思決定が可能になるその方法論を伝えています。

もちろんそこまでに至るのは容易ではなくそれなりの修行が必要です。

 

自分の意識を自在に操れるようになるための方法論を示してくれているのです。

 そうなれば生きたままカルマの影響から抜け出ることも可能なようです。

これを解脱とも呼ばれています。

 

 
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一休

 

 

 

 

 

 

 

躁鬱と浮き沈み

躁鬱病では、気分がハイな状態と落ち込むのが繰り返されますが、

人生で大きな浮き沈みを繰り返すような人もこれと似ておるように思います。

 

短期か長期かの違いでエネルギーの法則性としては同じことと思います。

 


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成功して富も名声も得て図に乗っているような人は、後でとんでもない落ち込み方をしています。

 

結婚して幸せいっぱいだと浮かれて節操の無い稚拙な夫婦は、後でたいがい離婚してます。

 

これは一例ですが、

一時だけ調子が上がっていて得られる幸福感というのはやはり脆いものです。

あとで必ず反動が来ます。振り子と同じです。

 

こういう不安定な幸福状態(ハイな状態)は、独りよがりな状態であることが多く、周囲にもあまり良い影響を振り撒くものではないように思います。

 

 

われわれ修行者が求める幸福は、浮き沈みに揺さぶられない安定感のあるものを求めます。

 それにはやはり意識を上げること、と身体を整え丹力を育てること、だと思います。

 

それにより意識のコントロールが自在なものとなって行きます。

 

 

 

一休

 

重い祈り

最近、神社で参拝後に境内で休みながら他の参拝者の様子を観ていて感じました。

 

祈っている、お願い事をしているその内容はわかりませんが、神前で神に向けて送っている念波とその時のエネルギーを感じて思うところがありました。

 

端から様子を観ていると、人それぞれいろいろな念を出してお祈りされてるのがよくわかります。

想いの乗っていない感じのものから、一生懸命必死になってお祈りしてる人まで、いろいろな方が来てますが、

粗っぽい雑な感じの祈りや必死になって祈ってるのなどは、その場の神気に全く溶け込まない様子が窺えました。

神に相手にされてない、と自分には感じられました。

粗っぽい念(エネルギー)や執着の強い重い念や、逆に軽薄な感じのものも、

神社でお祈りしても届かない、ように窺えました。

 
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雑なのや軽薄なのはさておき、一生懸命なのも重い念波になってしまうと神は相手にしてくれない、ように思いました。

 

その点、仏教系の神(仏尊)の方が、重い念にも溶け込む印象があります。

 

神社(神道)の神と寺院(仏教)の神は日本では陰陽☯で対になってますが、

祈りの様子を観察していて働きの違いをなんとなく感じました。

 

 

重い祈りにはその心の裡に苦しみや悲しみがあるものです。

 

喜怒哀楽という感情で言うと、神社では喜と楽に対応し仏尊では怒と哀にも対応しているというか、

つらい気持ちや苦しい心を包んでくれるような、癒してくれるようなのはどちらかといえば仏尊の働きが対応しているような気がしました。

 

 

一休