何のため
人は、幸せになるために生まれている
人は、幸福を知るために生きている
そう、信じています。
決して人は、カルマの清算のために生きるのではない
そう思っています。
それでも、
カルマもトラウマも、人には降りかかってきます。
しかし、
それに翻弄されたまま終わってしまうのは、正しくないと思っています。
人の運命(さだめ)はそうあるべきではない、と私は思っています。
少くとも、
本気で幸せを求める者は、幸せにならなければいけないと思っています。
私は、この自分の信じたい想いを押し通すために、
これを真実にするために、道を進んでいます。
自分という人間に、求めるものを得させるため、
そして、本気で求める人にも求めたものを得させるために
人は、幸せになるために生きている、
を真実にするために、
どうにかしてそうするために、
この道を進んでいます
一休
霊場巡りの日記
さて、
先日、神奈川県足柄にある大雄山最乗寺という曹洞禅のお寺に初めて行ってきました。
数日前にたまたま画像を観てエネルギーの高いところのようだったので、思い立った勢いで行ってみました。
朝に瞑想行を行い家を出て、着いたのはちょうど昼頃でした。
神社仏閣などはだいたい、なるべく早い時間のほうが清浄な神的エネルギーが強くあるので出来れば早く着きたいのだが、日々の瞑想行もあるので大概早くても今は昼近くになってしまいます。
久しぶりに来た神的なとても高いエネルギー場です。
人も少なくて良かったです。
初めて行く霊場なので特に、神仏や御眷属にご無礼の無きようひたすら礼を尽くして今では参詣します。
はじめの印象はやっぱり大切だろうと思うのです。
こういった場所では観光客としてではなく、今では修行者としてきちんとご挨拶をしなければと思っています。
もしご縁があれば霊的守護をいただくことになるなどもあるかもしれません。
なので行きに写真は撮らず帰り際に少し撮っただけなのでいい写真がありません。
ここは天狗霊とのご縁の深いお寺です。
金剛力士像の代わりのような形で天狗霊の像が守護されています。
凛とした高い波動の霊的結界が働いており背筋も正されます。
本物の霊場という感じです。
後で調べてみたところお祀りされている道了大薩埵とは、
室町時代の曹洞禅僧であり修験の満位でもある妙覚道了さまで、ご入定された後寺の守護と衆生救済を誓って天狗となられ今も守護神として働かれているということです。
こちらの禅寺は開山より600年の歴史ある霊場だそうです。
写真は水神さまをお祀りしているという水場です。
浄化のエネルギーに満ちていたので、この滝の前に佇んでしばらくの間清めのマントラを唱え祓い清めさせて頂きました。
後で調べてみたら清心の滝という名前でした。
写真は無いですが霊泉の涌き出ているのもありペットボトルに汲めます。
とてもおいしい泉水でした。
おそらく話題性も無いのか、人もまばらで空いているのが良かったです。
パワースポットとして変に注目を浴びたりなどはしてほしくないなと思います。
修行道場としてしっかり護られて栄えて行ってほしいと思うところです。
観光地化している今の鎌倉の円覚寺や建長寺などにはこんな高いエネルギーは無いですが、
おそらくかつてはこんな神的エネルギーに満ちた霊場だったんだろうなと思い浮かべます。
鎌倉を愛する自分としては、これら由緒あるお寺にも本来の霊場としてのエネルギーと働きが復活してほしく願うものです。
一休
禊祓
野口整体での活元運動、その元は古神道の禊祓(みそぎはらえ)の行法としてあったもの(霊動法とも呼ばれた)が原型とも言われています。
(野口先生が明確にそれが原型と言われてたのか今のところ私は知らない)
自分も活元運動を行として続けてもう八年九年になりますが、
長く行として続けて来て、今では活元運動が禊祓の行であるということがよくわかります。
野口整体では宗教的な表現は表向きあまりしていません。
あくまでも整体、身体を整えるという表現が表向きされていますが、中身としてはやはり禊祓です。
禊祓とは罪、穢れを祓い落とす=カルマ、邪気を落とすこと、です。
身体を整えるということ自体、それは多かれ少なかれ禊祓になります。
例えばトイレで用を足せば(特に詰まっていたようなのが出てゆけば)、心身の力み(不随意緊張)が抜けます。
自然と深い息を吐いて身体も軽くなります。
そのときに重いマイナス想念なども祓い落ちます。
だから清掃をよくしないと特に足下には穢れが溜まります。
決して目に見えている排泄物だけが出てってるわけではないのです。
シャワーや入浴も同様に心身の力みが抜ける時には、目にみえない気の汚れや重い念など祓い落とされてます。
入浴中に今日あった嫌な出来事が浮かんでくるとか、沈んでたものが意識化される(抜けて行こうとする過程)などもあると思います。
心身が弛んで軽くなるような時、スッキリするような時にはそれだけ余分な重いのや見えない汚れが落ちてるわけです。
リラックスする場所は換気や清掃もよくしないといけません。
いつか畳の道場を持てたらいいなあと夢見ます。
活元の出来る場を求めて行かなくても自分のところで出来れば本当にいいなと思います。
もし持てたらしっかりと神をお祀りして(場を祓い清めて頂けたりもする)修行に励めたらなあと思います。
一休
神を労り
伊勢神宮からお宮と御神札が届いたのでお祀りしています。
とてもエネルギーが良く、神宮から直接送ってもらうと随分違うのだなと思いました。
それとその前後から祝詞奏上を少しするようになりました。
神社での参拝時に唱えると、神との感応度が随分上がると実感しているところです。
今はまだわりと短めの天津祝詞だけですが、神に捧げる想いで唱えると悦びの反応のようなものが返ってくるのを感じています。
特に参拝者の少ない寂しい神社ほど捧げたいなと思います。
感謝の想いで捧げて、わずかでも神に元気になってもらいたいと思うものです。
人からお願い事、頼まれ事ばかりをされていては神も疲れるでしょう。
仕事やボランティアでも心から感謝されればそれが活力になって疲れも吹っ飛ぶ、というのはやはりエネルギーの原理でしょう。
経験のある人ならわかるものと思いますが、依頼心の強い人と接しているとこちらのエネルギーを大きく奪われます。
そしてそういう人のためになにかしてあげたい、という気持ちにはならない。
神も同じでしょう。
感謝や労りの気持ちより依頼心が大きくなるようでは良好な関係は築けないだろうなと思います。
そして私的な依頼心が薄れて行くほど高位の神との関係も出来てくるのだろうという気がしています。
いずれお伊勢さまから、来なさいと呼ばれてお参りに行けたらいいなと思います。
一休
今日の日記
シヴァ他、浄化力の高いエネルギーでの瞑想に力を入れてここ数日過ごしています。
次の伝法を受ける前にしっかりともう一つ浄化して、レベルを上げておかないといけないものがあるようです。
そういう導きの流れになっています。
出せば入る、というのはやはり原則で、
まずは余分なもの濁ったものを出さないことには新しいいいエネルギーは入って来ませんので、まずは邪気出し膿出しです。
出してもう一段波動を上げないとというところです。
伊勢神宮に問い合わせをして神棚の簡易のお宮とさらに追加で、
内宮、外宮、それぞれのお札を合わせて送ってもらう運びとなりました。
インスピレーションで導かれた形でお札もお願いすることになり、嬉しく思っているところです。
伊勢神宮に祭られているのは大変高位の神です。
日本の霊的中枢とも言えるような特別な場所です。
その御神札を自宅の神棚でお祀りできる流れになったということは、
それは自分にとっては、
それがやっと許されたということ、
自宅で高位の神を祀ることが認められたことを意味しています。
普通の人であれば誰でも、
お伊勢さまを祭りたいと思ったら、必要な手続きを踏んでかかる御代を納めればそれで可能です。
大きなお金がかかるわけでもないし、難しいことでもないです。
しかし、修行者にとってこうした神様事はただ形だけで出来てもあまり意味がなく、
そこに神縁があるのを感じられて、誘導されるものがあって出来るようになることに意味があります。
自分の意識レベル、波動レベル、神と向き合う姿勢などが日々の努力で向上して、認められてはじめて確かなご縁が頂けるものと思っています。
自分の今のレベルと、持っている縁によって繋がれるものは変わってくると思います。
小さなことではありますが、
こうして新しい、より質の高いご縁が与えられた時というのは、
日々の努力の成果を感じる時でもあり、
いろいろな想いに耐えて堪えていることへのご褒美のようでもあり、
嬉しく思えるのです。
上から褒めてもらうのは、いくつになってもうれしいのかなあと思います。
一休
高麗神社
今日はとても久しぶりに高麗神社へ参拝してきました。
本当は活元瞑想会に行く予定でしたが、今日どうしても車検の見積り相談をしに行かなければならなくなったので、瞑想会には行かずに地元である入間市のディーラーまで行くことと相成りました。
ついでなので産土神社へ参拝して、そこから少し足をのばして日高市の高麗神社へ、
久しぶりに行こう、と思ったので心の赴くに委せ行きました。
着いてみると駐車場は車がいっぱいで、
桜が咲いてるから混んでるのかなと思ったら、
4月1日で桜祭りというのをやってたからでした。
参拝を終えたタイミングで、なにか催し物が始まりました。
桜のご神木にお供えをして、宮司さんと巫女さんが祝詞奏上と舞を披露するのが始まりました。
参拝客も参加するような形になったので、私も居合わせてラッキーでした。
巫女さんが舞を披露しているときには、
風と共にとても華やかな楽しい波動がその場に拡がるのが伝わって来ました。
神様がその場に来られているのはよく感じられました。
喜ばれて一緒になって踊っているのかな?と思うような雰囲気でした。
巫女さんの格好が特に華やかで綺麗で、
それに比べると、、、
参拝客と、特に自分の格好がとても地味で薄汚く感じました。
ワークマンのジャンパーに、洗いすぎてお尻に穴の空いたズボンを履いて、上下とも色味のない灰色、、、
その格好でその場に居合わせてみて、、、ちょっとこれは無いなと思いました。
さすがに神様に失礼、と思えました。
どうも、カラフルで小綺麗な格好を好まれる神様は多いようです。
まるで自分のそのあたりの無頓着さを指摘されるかのように情報も最近入って来ていたのですが、
今日さすがに、今後ちょっと改めよう、と思わされました。
その後社務所で神棚のお社等を見学していると、
一つの簡易神棚が目に留まりました。
「これがよい、(今使ってるのより)これの方がよいぞ」と後ろから言われた感じがしましたので、購入することにしました。
が、それは伊勢神宮内宮で取り扱っているのでそこへ連絡してください、とのことなので、後日連絡して購入する予定です。
やっぱり神具は伊勢神宮のものがいいんでしょうかね。
一休
現世利益
お大師様は真言密教を開くにあたり、現世利益という要素を大変重んじていたことを知りました。
「福智無辺誓願集」という大願を掲げておられます。
それは福徳と智恵、物質的にも精神的にも満たされることを大事とする教えであるということです。
自分としてはとても共感を覚えます、やはり縁のある教えなのでしょう。
ちょっと深く入り込んだ話になりますが、
霊験あらたか、現世利益の力を持つ行者には、呪法、呪術に通ずる者も実は多いという秘密事情があります。
呪力は魔と関わるものですから、悪い力となるか善い力となるかは紙一重の世界です。
呪力による現世利益は大きなバッドカルマとなります。
池口恵観大阿闍梨は先祖から代々続く呪法を修めているそうで、
ご自身の霊力が強いのはこの呪法を修しているからというのが大きいと言っておられます。
私の指導者→の師匠→の師匠である聖者もまた現世利益をもたらす霊力の非常に強い方で、物質転換などの奇跡力と呼ばれるような力も供えていましたが、こうした力も呪力に通ずるもののようです。
ある意味での魔と通ずる力であるようです。
この流れのものを私は学び修していることになりますが、呪法と呼ぶようなものにはまだ関わりはありません。
天空の城ラピュタで、
シータが飛行石と共に受け継いでいるおまじないで、
良いまじないに力を与えるには悪い言葉も知らなければいけない、でも決して使うな、と滅びのまじないのことを話していましたが、
これと同じようなことと思います。
現世に大きな力を及ぼすのには、正神界ではない裏霊界の存在(魔の類い)の力は非常に大きいようです。現世に近いからです。
当時は今よりもずっと裏霊界の現世への影響力が濃かったようでもあります。
昔ばなしで妖怪や悪鬼、幽霊の出てくる怪談めいた話が多いのも、科学がないが故の思い込みやつくり話という簡単な話でもなく、そうした背景があっての実際のかつての実態だったようです。
それだけに呪法も発展し、使う者も多くいたのでしょう。
本当に力のある者であれば魔力さえも使いこなす、魔をも使役するようですが、
これは一寸間違えば魔に取り込まれ魔の手先となってしまう危険極まりない行為でもあります。
人間界で言えばヤクザ(裏社会の力)を使いこなすと言うようなものです。
政治家でもそれだけの力ある人などそうはいないでしょう。今ならロシアのプーチンさんくらいならどうかわかりませんが。
霊的なことに関わっている人が実際には多くが裏霊界の魔の類いに使われてしまっているようです。
悪の手先とまで言わなくとも、裏霊界とつながり影響を受けてしまっているのが多いのは自分も感じるところです。
使ってしまえるだけの力がこちらになければ利用されてしまうのです。
軽率に関わりを持ったりして縁が結ばれてしまえば(取り引きが行われてしまえば)、それは来世や子孫にまで受け継がれてしまう、簡単には切っても切れない縁としてのカルマも生じてしまいます。
一度でもヤクザと取り引きをしてしまえば、その縁で負ってしまうものは自分一人で済むものにはそうそうならないでしょう。
だから基本的には裏には近づくべきでないし、関わるべきでないのです。
普通の堅気の人はそうすべきなのです。
これから先、自分も呪力を身に付けることになるのかどうかはわかりません。
これからの時代は条件も変わってきます。この類いの力も必要無くなってくるかもしれません。
霊界の様相も以前とは変わり、裏霊界の力はどんどん弱まっている、これからもさらに弱まって行くとも言われ、これは自分も実感しているものがあります。
正神界とのつながりのみで大いなる現世利益を誰しもが、正しく望めば得られる時代へと進んで行っているようでもあります。
一休