一休 真実の探求Ⅱ ~引導の神々~

霊性修行、活元修行の日記、気エネルギー、神仏や霊的な事など             

人間の要求

人は「意識」の存在です。

すなわち「意思」の「気」(エネルギー)の存在である、
のが本質です。


野口先生は、

無意識から起こった要求(エネルギー)が

→潜在意識を通って、

→顕在している表の意識へと流れている

と、言われています。


潜在意識は窓のようなものだ、とたしか言われていたと思います。

ここに否定的な思いなど(抵抗波動)があると、言わば窓が閉まっていたり、半開きになっていたりする状態となり、
エネルギーの流れが阻害されるわけです。

そこにエネルギーの鬱滞が起こり、流れが乱れます。


エネルギーの流れは水と同じで、川の流れと同じイメージと言えます。

高いところ(無意識、真我などの高次元)から、
低いところ(表層意識、物質界などという低次元)へ向けて流れてゆきます。

阻害されれば、乱れた激流となったり、障害を避けてどうにか流れて行ったりします。
大河のような、太く緩やかな安定した流れにはなりません。



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人間の行動はその九割以上が潜在意識(当人の気づかぬ思い込み)によって決定づけられている、
とも言われます。

野口先生は何割という表現はされていませんが、内容は同じことを言われています。

ここを大変重要なものとして、野口先生は潜在意識教育ということを行っていました。
ご自身のやってきたこと(多くの人の心身を正す、病を治すなど)を、
ただ心の向きを変えただけだ、とも言われております。



無意識、真我の要求に沿わない抵抗波動
(否定的な思い込み、自己否定)が人の運命を阻害している要素は大変大きい。

自己をそのまま受け入れられる、
自分を赦し、認め、愛することを、
生命を生かすことを、

人は常に求めています。



一休

今日の日記

トラウマが出て流れるついでに、昔のことをいろいろ思い出しています。

今日は休日でしたが浄化で心身もガクッと弛みましたので、休みたい要求が強く出ています。
頭も一生懸命使いたくないので勉強はしません。

こういう弛んだ時は要求に従ってしっかりと心も身体も頭も休めなければいけません。



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久しぶりに子供の頃のことを思い出しました。

子供の頃はもの作りと昆虫などの生きもの観察が好きでした。


私は九種体癖(骨盤閉型)があります。

この体癖を持つ人は集注密度が高く、何かに熱中し出すと寝ても覚めてもずーっと集中が継続します。

子供の頃に、大人用の組立式のラジコンを買ってもらった時などは、何日もずっと集中して作り続けて、
ご飯も寝るのも、親に怒鳴られるまで動きません。
トイレに行く間も惜しんで作っていたのを思い出しました。

昆虫を見るのも、ずーっと観察していたものです。
学校の校庭で何かの観察に熱中していたら、いつまにか回りに誰もいなくなっていて授業が始まっていたこともありました。

熱中し出すと回りの音も聞こえなくなるようでした。
今はあの頃ほどの集中ができません。



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それはそうと、
もの作りが得意だったので職人(パティシエ)の道に進みましたが、結局その道で将来の目標や理想を見出だせずに、
途中で道を逸れて他のもの作り仕事も二十代はやっていました。

今はもの作りからも離れ、こうしてヒーラー(癒し手)修行の道を進むことになっています。
先のことはわかりませんが、この道に自分のお役目がある、と感じています。



人生というのはどう流れて行くかわからないものだなとつくづく思います。

かつてはもの作り以外に道はない、と思っていたのが、
あろうことか当時からは予想もつかない道を進んでいます。



それまでと全く違う道へ進むとなると、たいがい周囲からは反対の声があがるものです。
それまでの経験が生きないとか、もったいないとか言う人もいますが、
私は全くそうは感じません。

経験というのは後にどう生きてくるかわからないということもありますし、

何より経験していることは心身(脳も含む)の発達、人格の形成という、生きることの基礎に深く関わっているからです。


これは発達段階にある子供だけではなく、大人になってからも同じと思います。

歳をとれば物質的には低下するもの、減るもの、が多くなりますが、
人間は物質だけで出来てるわけではありません。
発達は物質のみ、で行われるものではなく、心と連鎖して行われるものです。



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なにかしら意味を成して連なっているのが経験である、と思います。

あのときのあの経験に何の意味があったのか、は後になっていずれわかるものだろうと思います。


算段的に考えるあまり可能性を閉ざしてしまってはそれこそがもったいないこと、
突飛な発想も大胆な選択も、受け入れる者に大道は拓かれて行くものと思っております。



一休

トラウマの表出

ここ数日、心身に新たな詰りが顕れ、
身体の偏りと意識の低下、気分の優れない状態がありました。

今日になって、浮いてきたトラウマが涙で流れていっています。



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これは自分の見解ですが、トラウマ(心的外傷)には、大きく2つの要素があるように思います。

強い恐怖などでの動揺、と自己否定、とに別れるように思います。
心理学ではどのように観ているのかはわかりません。


小さな子供などを観ていますと、
怖い思いをした、ビックリした、そのしばらく後になってからワーッと泣きだします。

身体に起こった極度の緊張を弛めようと働くことで、ワーッと泣くわけです。
そうなれば、抜けて残りません。
が、
こうした反応がスムーズに出ないと、そのまま残ってしまいます。


他者から受けた心的外傷になることも、
最終的には自分がそれを受け入れることで、それが自己否定の原型となっています。
故に、自我意識の発達途上である幼少期にこの原型が作られやすく、
潜在意識に形作られています。
幼少期には自我意識で抵抗できずに受け入れてしまうわけです。

そしてことあるごとに否定を繰り返してしまうことで、コンプレックスが育ちます。




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自分の心身を根底から変える、ことを始めてからもう何年も経ちますが、

経験を経て、アプローチの仕方も変わって来ています。


以前はこうしたトラウマに意識的に焦点を当てて浮かび上がらせようとしていました。
しかし、それをすると浮かんできた苦しさにとらわれてスムーズに抜けて行かないことが多く、
心身ともに大変苦しい思いをしていました。

おそらく通常トラウマは完全に忘れていることも含めてきりなく出てくるものです。
むやみに浮かび上がらせれば乱れる一方にもなります。



やはり結果的には、
それら(トラウマ)を自然に浮かび上がってくるまでは意識しない、

普段的にはただ自分の波動(振動数)を上げることに勤めるのが最善である、
と今は結論付けています。

波動が上がることで、然るべきときに不要な抵抗波動(トラウマ)は自然に浮かび上がってくるものである、ことが実感されています。




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トラウマを癒す療法などもいろいろあると思います。
エネルギーを扱うものから後退催眠のようなものまで、自分の知らない方法もあると思いますが、

こういったことも、自然に導かれたような形で行う以外には、むやみにはやらない方がよい気がします。



野口先生も病症の経過について、
治りを意図的に早めるようなアプローチは最善の経過にならないと言われています。

何事も自然な流れを重視するのが結果的にはベスト、と感じています。

焦らず、見守れることで、自然な流れがつかめるように思います。



一休

西洋と東洋

西洋文明は「智」と「理」から発展しています。
東洋文明は「感覚」「感性」から発展しています。

これはかつて栄えた古代文明アトランティス、レムリアからの流れが関係しているそうですが、それについてはここでは置いておきます。


どちらが正しいか、ということではなく、
本来は相互に補完し合ってゆくのが望ましいのだと思います。



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最近は日本人も、特に戦後は西洋的な智と理の思想や文化が多く入ってきて(特に学校教育は大きいと思う)、思考を優先させる要素が強い社会になっているかと思います。
それに伴ってなのか身体特性も変わってきて、昔の日本人のように下半身に重心のあるずんくりむっくりはいなくなってきてます。
(思考優位に傾くと重心は上体へ上がります。本能的な感覚優位に傾くと重心は低くなる。)



西洋の科学は、分解して分類して分析する、
そして目に見える形で証明する、という捉え方と思いますが、

分解してしまうことでそれぞれの繋りや本質を見落としやすいものでもあります。


東洋の文化では感覚的に捉える要素が強いために、どうしてもその証明や説明が曖昧になるなどの欠点があります。


解剖学で人の身体を分解すれば中身の姿形は知れますが、
実体のない心とか、それと連動して一体になって生きて動いているその様までは捉えられません。



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人は皆それぞれに偏りの傾向があります。

私は基本的には思考優位に働く特性を持っていません。
これは身体特性でもあり、それは魂の性格とも言えます。

なので基本的には思考するよりも感覚を使うこと、身体を使って感じ取ることから物事を学びとって行くのが自然で合っているのですが、
やはりそればかりだと片手落ちになって欠陥が出てきてしまいます。


ここへきて密教を智と理からも総合的に捉えて知って行きたいという要求が強くなってきました。

これまでは身体を使って感覚を使って行を行うばかりでしたが、
やっぱり双方が大事なのでしょう。


こんなに頭をいっぱい使う勉強は久しぶりにやっています。



一休

今日の日記

真言密教空海お大師様の資料探しです。
昨日は新宿の紀伊国屋書店、今日は池袋のジュンク堂書店を巡り、
喫茶店で一服しながら書いております。

やはり読みたいと思えるものは本当の法力を持った(身に付けた)行者が書いているものが多く、
仏教大学の先生が書いているものも的外れな感が否めないという印象でした。

やはり本当に核心を知る者の言葉は参考になりますが、
そうでないものは理屈や理論がダラダラと述べてあっても、それだけなんだなと思いました。



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池袋の皇琲亭というお店で一杯760円のお高いコーヒーをいただいてます。
やっぱりちゃんとしたのは美味しさが別格です。
自宅でいれる一杯100円のインスタントドリップとはわけが違う。
安いのは舌にまとわりつくイヤな苦みがあって不味くてあまり飲みたくありません。



職人時代にも言われたものですが、

本物を知れ、一流を知れ、

とは、大切であると思っています。


本物、一流を知るには大概お金もかかりますが、
本物を体感することはお金には変えられない価値がやはりあります。

本物には本物たる所以が詰まっており、

そこには本物の努力とか本物の信念とか、
本物の気、本気、生き様、が詰まってます。そこから学べるものも感じ取れることもいろいろあります。



趣味も遊びも行のうち、と言いますか、

いわゆる修行然とした修行ばかりが修行ではないと思うものです。

私は一般家庭に産まれ、一般的な中で生きてきましたが、
それが自分の選んだ宿命だったのだと思っています。

おそらく、おそらくですが、
修行の世界に生き、ひたすら修行に明け暮れるというような人生は既に過去に経験しているような気がしています。

一般社会の中で一般の人間として生きることの方がはるかに生き難く、困難も多いと自分には感じられていました。



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魂はいろいろなパターンの人生を生きる方が学びが増すとも言います。

今回の人生で一番学びたいこと、体験したいことは既に与えられています。

今与えられている肉体、環境、その他全てに、自分の望みや目的が隠されています。


必要なものは全て、既に今に与えられている、のが人生です。



一休

真言密教

修行の合間の時間に新たな勉強を少しずつ進めることになっています。

弘法大師空海の教え、真言密教の教理を徐々に学び始めています。


と、言うのも、この先の行に深く関わってくるからです。
必要なものには然るべきタイミングで興味が湧いてくるというもので、

今まさに、お大師様との縁が結ばれつつある、という時なのかもしれません。



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日本の仏教は難しい仏教用語、難しい漢字がいっぱい出てきて、更に言っている内容まで難しい、
これほど取っつきにくいものもないような気がします。

が、今の自分にはスポンジに水が染み込むように入って来ている感じがあります。頭と目が疲れるので少しずつ書物から学んでいます。


密教の教えというのは、どこまでも実践がなければ理解は出来ないものです。
大学の先生などが解読や翻訳のような形で説明をしていても、
それは法、法力というもっとも肝心なものを知らない人の解釈によるものなのでそれなりのものとなっていると思います。(勿論そこからも学ぶことはある)


自分の場合これまで行を続けてきて感得、体得して理解されてきているものがあるのと、
師匠や他の霊的指導者の解りやすい噛み砕かれた教え等により、今の段階としてある程度理解出来てるものがあるおかげで、
難しい真言密教の言葉もなんとか頭に入って来ています。


これから少し先の段階で受ける伝法の中身は、弘法大師空海が遺した法であるとのことです。
法にも、お寺に遺し受け継がれているものと、お寺(表向きの仏教団体、施設等)には遺さず、陰に秘密裏に遺しているものがあるそうで、
自分が受ける予定のものは後者の方です。

法の世界では、大概重要なものは寺院等(表向きのところ)には残されておらず、
表に出ないところで秘密裏に残されているようです。


真言密教の場合、裏に隠したものはおそらくその後の仏教弾圧も免れることが出来ているだろうと考えられるので、
なるほどそういう意図も含んでいたのかもしれないなと思います。

お大師様であれば、釈尊のようにその先の未来を予見していたものがあるかもしれない、と想像もします。



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今まで弘法大師空海、といってもあまりピンとくることも無かったのですが、

ここへ来てなんとなく身近に慕う気持ちが湧いているのを自分の内に感じています。


ご縁に感謝し、ゆっくり勉強もして行こうかと思います。



一休

フラクタル

瞑想行が中心の日々になると余暇的な時間もだいぶ無くなります。
そんななかで、一杯のお茶を飲みながらひと息つく時間がとても貴重な時間に思えます。

やはり何事も、有り余るなか、もて余すなかから有難みを見出だすのはなかなか難しいことなんだと思います。
飢えてみて初めて知れることは本当に多い、と思います。



フラクタル(自己相似)ということで一つ大きなものをあげると、
日本列島は他の五大陸の雛型(縮図)になっているという話が有名です。

大本教出口王仁三郎聖氏が唱えていた説です。


北海道=北米大陸
本州 =ユーラシア大陸
四国 =オーストラリア
九州 =アフリカ大陸
台湾 =南米大陸


日本は霊的には世界の中心、心臓部のような位置付けだといいます。

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葛飾北斎の波の絵、
これもまたフラクタル構造が画かれてます。
たしか昨年NHK北斎の特集をやってたみたいですが、残念ながら見られませんでした。
ハイスピードカメラで見ると同じように見えるみたいです。

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その鋭い観察眼で宇宙の成り立ちまで見抜いてたのかもしれないと思うと、すごいなと思います。


アントニオガウディも自然は偉大な手本、のようなことを言っていて、
その美しく凄まじい建築をいつかじっくり観てみたいなと夢見ています。

野口晴哉先生は人間を観察、人間を探求することで真理を悟って行かれたようなお人と思います。


一芸は万芸に通ず、というか、

真理はどの道からも辿れるのだなと、

大宇宙は何処か遠くではなく、身近な小宇宙に同じくしてあるのだろうなと、
思います。



一休